はじめに 記事をお届けするに当たり、先の北海道における地震災害、関西地方ならびに中国四国・九州地方における大雨・地震災害で未だ行方不明、並びに亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
〜春は名のみの〜ですが、日本列島に早くも春が訪れました!
伊豆半島の河津では早咲きの"河津さくら"が開花しました。2月10日から始まった第29回 河津桜まつりの真最中です。毎年、河津さくらが咲き始める頃になると、合わせたように全国一斉に入試のシーズンが訪れます。もう既に受験されて合格発表を待つだけの方もいれば、これから入試のラストスパートをかけて猛勉強中の方もおありかと思います。
やるだけやって最後はやはり運を天に任せ、神頼みでしょうか?
そんな皆さんにお勧めです!
そこで、今回は学問の神様「菅原道真公」の登場です。
恐らく学問の神様は一年の内で一番お悩みになる時期ではないかと思います。それは、受験制度が個人の事情等一切無視の数値尺度で当落を決定しますが、神様は夫々の事情まで360度の広く長い視野からお見通しで、受験生の皆様には等しくご利益がある様にお計らいをされます。
当編集局も全く同感して、広く受験生の皆様に幸あれと祈念しながら、「太宰府天満宮」をご紹介いたします。
太宰府天満宮
太宰府天満宮御神木「飛梅」
太宰府天満宮夏祭りで元気に茅の輪をくぐる子どもたち
太宰府天満宮とは
天神様と太宰府天満宮
太宰府天満宮は、菅原道真(すがわらのみちざね)公の御墓所(ごぼしょ)の上にご社殿を造営し、その御神霊(みたま)を永久にお祀りしている神社です。 「学問・至誠(しせい)・厄除けの神様」として、日本全国はもとより広く世の崇敬を集め、年間に約1000万人の参拝者が訪れています。
受験合格・就職成就の願いを込めて・・・
サクラサク・・・
11代将軍・徳川家斉の娘の溶姫が前田家に嫁入りするときのために建てられた。
将軍家から嫁を迎える大名のみ朱塗りの門を造ることが許された。
太宰府天満宮
成り立ち
道真公は、承和12年(845)に京都にて誕生します。幼少期より学問の才能を発揮し、努力を重ねることで、一流の学者・政治家・文人として活躍しました。
しかし、無実ながら政略により京都から大宰府に流され、延喜3年(903)2月25日、道真公は住まいであった太宰府政庁の南館(現在の榎社)において、生涯を終えました。門弟であった味酒安行(うまさけ やすゆき)が御遺体を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御意志によるものであろうと、その地に埋葬されることとなりました。
延喜5年(905)、御墓所の上に祀廟(しびょう)が創建され、延喜19年(919)には勅命により立派な社殿を建立しました。 その後、道真公の無実が証明され、「天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)」という神様の御位を贈られ、「天神さま」と崇められるようになります。
長い年月、道真公への崇敬は絶え間なく続き、御墓所でもある太宰府天満宮は全国約12,000社ある天神さまをお祀りする神社の総本宮と称えられ、今日でも多くの参拝者が訪れています。
菅原家について
菅原家は、天穂日命(あめのほひのみこと)※に起源をもち、曾祖父古人公の時代に、学問をもって朝廷に仕える家柄となりました。
また、道真公の祖父、清公(きよきみ)公は私塾を設け、同所からは朝廷の要職に数々の官人を輩出し、菅原家は一大学閥となっていきます。
※天穂日命…天照大御神より生まれた神で、「農業・産業の神様」として信仰されています。
波乱万丈の生涯
類まれなる才能の持ち主であり、人々から厚い信頼を得ていた菅原道真公。
その生涯は、政略による左遷など波乱万丈そのものでした。
神童と称された幼少期
道真公は、幼少の頃より学問の才能を発揮し、わずか5歳で和歌を詠むなど、神童と称されました。
文武で名を馳せた青年期
道真公は、さらに勉学に励み、学者としての最高位であった 文章博士(もんじょうはかせ)となり、栄進を続けました。
学問だけでなく、弓にて百発百中の腕前を披露するなど、文武両面に傑出した人物としても、その名を馳せています。
出世から左遷への 壮年期
京都から讃岐国の長官として赴任された際、疲弊していた国を建てなおすなど善政を行い、住民に大変慕われたとされています。
その実績が宇多天皇に認められ京都に戻り、厚い信任を受け、ますます政治の中心で活躍しました。 寛平6年(894)、唐の国情不安と衰退を理由に遣唐使停止を建議し、後の国風文化の開花に大きな影響を与えます。
その後、右大臣に任じられ、国家の発展に尽くしていましたが、左大臣 藤原時平の謀略により、身に覚えのない罪によって太宰府に突如左遷されることとなりました。
失意の中でも誠を尽くした晩年期
家族とも十分な別れも許されないまま京都を離れる際、自宅の梅の木に別れの歌を詠んでいます。
菅原道真公の思いがこもる太宰府天満宮「紅白の梅」
【京都を離れる際に詠んだ和歌】
東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花
あるじなしとて はるな忘れそ
春風が吹いたら、香りをその風に託して大宰府まで送り届けてくれ、梅の花よ。
主人である私がいないからといって、春を忘れてはならないぞ。
太宰府では、衣食もままならぬ厳しい生活を強いられながらも、皇室のご安泰と国家の平安、また自身の潔白をひたすら天に祈り、誠を尽くしました。
延喜3年(903)2月25日、道真公はその清らかな生涯を閉じたのです。
その後、朝廷でも無実が証明され、人から神様の御位に昇った道真公は、太宰府天満宮に永遠に鎮まり、「学問の神様」・「至誠の神様」として現代に至るまで永く人々の信仰を集めています。
太宰府天満宮について、更に詳しくは下記のリンク先にてご覧いただけます。
ZIPANG TOKIO 2020
「学問・至誠・厄除けの神様 太宰府天満宮は天神さま(菅原道真公)をお祀りする全国約12,000社の総本宮(その壱)」
ZIPANG TOKIO 2020
「太宰府天満宮御本殿は五間社流造り、檜皮葺で、正面には唐破風状の向拝が付く、桃山時代の豪壮華麗な様式(その弐)」
参考
河津桜の由来
河津桜の原木を、河津町田中の飯田勝美氏(故人)が1955年(昭和30年)頃、偶然発見したさくらの苗を、現在地に植えたものです。1966年(昭和41年)から開花が見られ、1月下旬頃から淡紅色の花が約1ヶ月にわたって咲き続けました。 伊東市に住む勝又光也氏は1968年(昭和43年)頃からこのサクラを増殖し、このサクラの普及に大きく貢献されました。
一方、県有用植物園(現農業試験場南伊豆分場)は、賀茂農業改良普及所、下田林業事務所(現伊豆農林事務所)や、河津町等と、この特徴ある早咲きサクラについて調査をし、このサクラは河津町に原木があることから、1974年(昭和49年)にカワヅザクラ(河津桜)と命名され、1975年(昭和50年)には河津町の木に指定されました。
カワヅサクラは早咲きオオシマザクラ系とヒカンザクラ系の自然交配種と推定されています。
第29回 河津桜まつりは、平成31年2月10日(日)~平成31年3月10日まで開催!
お問い合わせ
河津町観光協会〒413-0512 静岡県賀茂郡河津町笹原72-12☎ 0558-32-0290
鎹八咫烏記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
協力(敬称略)
太宰府天満宮 〒818-0117 福岡県太宰府市宰府4丁目7−1電話: 092-922-8225
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