はじめに 記事をお届けするに当たり、先の北海道における地震災害、関西地方ならびに中国四国・九州地方における大雨・地震災害で未だ行方不明、並びに亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
企画展
裂〈きれ〉の美
2019年6月8日(土曜日)から7月21日(日曜日)
■会場 蓬左文庫展示室
■主催 徳川美術館・名古屋市蓬左文庫
■協力 名古屋市交通局
尾張徳川家では、手鑑に貼り込まれた状態のみならず反物や端切れの状態で、「名物裂」をはじめとする数多くの裂地を守り伝えてきました。
このため染織という脆弱な性質ながら、現在でも様々な裂地を見ることが出来ます。
一般にはわずかな断片でしか見られない希少な裂地も、ときには織留を含めた、良好な状態で遺されています。
尾張徳川家に伝わった豊富な裂地コレクションから、茶人たちに重宝されてきた金襴や緞子・更紗といった美しい裂地を紹介します。
また、掛物や巻物の表具をはじめ、茶道具の仕覆や御物袋、能装束などに用いられた裂地からは、往時の尾張徳川家の洗練された美意識を垣間見ることが出来ます。
本展では、尾張徳川家の裂地コレクションをひもとき、様々な裂地を紹介いたします。
(平安時代・鎌倉時代・江戸時代の裂地の数々を展示いたします。)
名古屋市蓬左文庫
蓬左文庫について
尾張徳川家の旧蔵書を中心に和漢の優れた古典籍を所蔵する公開文庫です。現在の蔵書数は、約11万点。蔵書内容の豊富さが蓬左文庫の特徴となっています。さらに、書籍だけではなく、尾張徳川家に伝えられた2千枚をこえる絵図も所蔵しており、名古屋の城下図から世界図におよぶ古地図や、屋敷図・庭園図など、多彩な内容の絵図が含まれています。
江戸時代の名古屋城下図「尾府名古屋図」
徳川園龍仙湖
徳川園菖蒲田
徳川園大曾根の瀧(新緑)
徳川園大曾根の瀧(紅葉)
蔵書の閲覧のほかに、徳川美術館の大名道具と合わせて、武家の学問と教養など、近世武家文化をわかりやすく紹介する展示や、徳川美術館・徳川園と連携した講演会などを企画開催します。
※ご注意
蓬左文庫、徳川園、徳川美術館は同じ敷地内にあります。
徳川美術館から入場すると蓬左文庫は共通券で入場できます。徳川園は入場券が別になります。蓬左文庫のみ見学される方は蓬左文庫から入場してください。(ただし、徳川美術館へは入場できません。)
裂地の展示全150点の内、50点は7月1日より入れ替えとなります。
徳川美術館 (国・登録文化財)
本館
設計協議の1等案をもとに吉本与志雄が実施設計を行いました。施工は竹中工務店。外観の意匠は城壁を思わす外壁を巡らし、屋根は緑色釉薬瓦葺とし鯱を置く。全体としていわゆる帝冠様式のデザインをもつ建物で、尾張徳川家の所蔵品を展示しています。
南収蔵庫
本館とともに吉本与志雄が実施設計を行いました。施工は竹中工務店。本館の西側に位置する中規模の鉄筋コンクリート造2階建の収蔵庫。切妻造、本瓦葺で、開口部がほとんど無い大壁造風の建物です。本館に接続しともに重厚な外観を構成しています。
蓬左文庫の歴史
蓬左文庫にとって、尾張藩の書物倉である「御文庫」の創設が、その歴史の始まりといえます。
元和2年(1616)、徳川家康の死去により、その遺品の多くが、尾張、紀伊、水戸の御三家に分譲されました。このうち、のちに駿河御譲本と呼ばれる家康の蔵書については、3千冊が尾張家に譲られ、これを契機に、尾張藩の御文庫は形成されました。
この後、御文庫の蔵書は、歴代藩主の書物収集を中心に、その蔵書を拡大し、幕末期の蔵書数は、5万点と推定されます。江戸時代を通じ、尾張藩の御文庫は、質量ともに我が国屈指の大名文庫でした。 明治維新後の混乱期には、払い出しなどにより蔵書の約三分の一が流出しています。残った御文庫の蔵書に、「御記録所」をはじめとする尾張藩の役所、別邸の蔵書の一部が加わり、尾張徳川家の蔵書として東京と名古屋の屋敷に保管されることになりました。
尾張徳川家が、財団法人の設立を構想し始めるのは、明治末から大正初期あたりですが、「蓬左文庫」の命名もこの頃のことです。19代当主徳川義親氏は、江戸時代以来の同家の蔵書にたいし、蓬左城(名古屋城)内にあった書物を伝える文庫という意味を込めて「蓬左文庫」と名付けました。
昭和10年、名古屋大曽根邸内に徳川美術館が開館したのと同時に、蓬左文庫は、東京目白の邸内に開館しました。明治維新から蓬左文庫の開館までにも旧尾張藩士の旧蔵書をはじめ、多くの資料が蔵書に加えられています。
公開文庫の道を歩み始めた蓬左文庫ですが、戦争により、10年足らずで、休館を余儀なくされます。本格的にその歩みを再開したのは、昭和25年の名古屋市移管後のことです。翌年から、旧尾張徳川家大曽根邸内の現在地において、一般公開が、始まりました。以後、名古屋市教育委員会の管轄下、図書館の分館をへて、名古屋市博物館開館にともない、昭和53年より、その分館にとなっています。
現在の蔵書数は約11万点。名古屋市移管後の収集書もすでに3万点を越え、蔵書内容の豊かさが蓬左文庫の特徴のひとつとなっています。
蓬左(ほうさ)とは
「蓬左」とは、江戸時代に使用された名古屋の別称です。古代以来の歴史を有し、全国にその名を知られた熱田の宮は、中国の伝説にいう仙人の住む蓬莱山にあたるという言い伝えがあり、「蓬莱の宮」、「蓬が島」などとも呼ばれていました。このため、蓬莱の宮の左方に開けた新興の城下町である名古屋※は、「蓬左」、名古屋城は「蓬左城」とも呼ばれました。つまり、蓬左文庫とは「名古屋文庫」という意味になります。
※古くは那古野,名護屋,浪越とも書いた。別称蓬左(ほうさ)は,西からみて熱田(古名,蓬萊島)の左に位置するためであります。《江家次第》裏書に平安時代末の荘園〈那古野庄〉として出るのが初見。…
家康の蔵書「駿河御譲本」
晩年の徳川家康は、学術文化の受容、振興に熱心でした。駿府(現在の静岡)に隠居した家康は、江戸城内に設立されていた富士見亭文庫から、蔵書の一部を移し、駿河文庫を創りました。その蔵書には、優れた書物の多いことで知られる金沢文庫(鎌倉幕府の執権北条氏の一族が創設した文庫。)の旧蔵書、朝鮮の優れた金属活字印刷による書物など、当時、収集できる最高のものが集められました。
駿河文庫の蔵書は、約1万点といわれます。家康の没後、将軍家に贈られた一部をのぞいて、およそ5対5対3の割合で、尾張、紀州、水戸の三家に分譲されました。現在、紀州・水戸両家分については、ほとんど「駿河御譲本」の実体を確認することができません。これに対し、約三分の一を流出したものの、蓬左文庫に残る尾張家分は、「駿河御譲本」の原型を最もよく伝えています。
交通アクセス
公共交通機関が便利です。
お車の方は、徳川美術館南側に専用駐車場があります。北側には市営有料駐車場有。
※ご入場のご注意
蓬左文庫、徳川園、徳川美術館は同じ敷地内にありますが、徳川美術館から入場されますと蓬左文庫は共通券で入場できます。徳川園は入場券が別になります。蓬左文庫のみ見学される方は蓬左文庫から入場してください。(ただし、徳川美術館へは入場できません。)
敷地内には、レストラン、和食処、カフェがあります。
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
徳川美術館 〒461-0023 名古屋市東区徳川町1017 電話番号:052-935-6262
名古屋市蓬左文庫 〒461-0023名古屋市東区徳川町1001番地 電話番号:052-935-2173
名古屋市役所 〒460-8508 愛知県名古屋市中区三の丸三丁目1番1号
電話番号:052-961-1111(代表)
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