はじめに 記事をお届けするに当たり、この度の九州豪雨と山形沖の地震災害、並びに近年の北海道・関西地方、並びに中国四国・九州地方他、多くの大雨・地震災害で未だ行方不明、並びに亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
新庄まつりの起源
今から約260年前に始まった新庄まつりの熱気は、ふるさとを飛び出して、
全国各地、海外に伝わって、人々の交流の輪を広げています。
飢饉で心身ともに疲弊した領民たちを鼓舞し、五穀豊穣を願うために約260年前に始まったまつり。今では山車づくり、囃子、ひき手などと、その全てに市民が関わる地域あげてのまつりになっています。
新庄まつりは戸澤神社例大祭から始まる
現在、最上公園の名で親しまれる新庄城址。
新庄城址の正面中央に位置している神社が戸澤神社です。
戸沢家の始祖である戸澤飛彈守衡盛(とざわひだのかみひらもり)、新庄移封当時の藩主である戸澤右京亮政盛(とざわうきょうのすけまさもり)、11代藩主戸澤正實(とざわのまさざね)を祀っています。
また、戊辰戦争に官軍の旗印として与えられた菊花御紋の旗が宝物として保存されていますが、この旗は靖国神社と戸沢神社にしかないと言われています。
明治26年10月に旧領民の有志によって戸澤神社を旧城址に創立すべく書策し、明治27年8月10日に社殿が落成されました。落成の2週間後である8月24日に盛大な祝祭が行われた記録があります。
現在、戸澤神社例大祭は毎年8月24日午前10時より戸澤神社社殿内において行われています。
新庄天満神社
宝暦6年(1756)、大凶作にうちひしがれている領民に活気と希望を持たせ、 豊作を祈願するために領内をあげて行われた祭礼「天満宮祭り」が新庄まつりの起源。
新庄天満神社は新庄城址本丸跡の南西隅に位置し、新庄藩主戸沢家の氏神として尊崇された神社です。新庄築城の3年後にあたる寛永5年(1628)初代藩主政盛によって建立されたものです。主祭神は学問の神様である菅原道真であり、学業成就のご利益があると言われています。昭和62年8月25日に山形県指定有形文化財(建造物)指定されています。
新庄まつりの起源とされている祭礼「天満宮祭り」が始まったの宝暦6年(1756)。新庄まつりに関する記述が見られる最古の文献「豊年瑞相談」に当時の模様が詳細に記録されています。
神輿渡御行列
旧新庄城内にある天満宮を出発する総勢200人余りの神輿渡御行列。
御神体を神輿に移す神事が行われた後、市内を練り歩く神聖な儀式です。
神輿渡御行列は、城内にある天満宮の御神体を、市中の上手から下手へ町々を巡行させ、人々の平安を護ってもらう行列です。多くの侍が神輿を警護します。新庄城址を出発した行列は、御先手がかける「下におろう、下におろう」の声のもと、市内を一巡して城址に戻ります。この古式ゆかしい行列に参加する氏子総代、各小頭などの面々約200人は、この日ばかりは新庄藩の武士になりきります。一対の挾箱を持つ足軽役二人の息のあった足さばきや傘廻しの妙技、熊の積毛を持つ伊達衆の演技をはじめ、天狗、神輿など数多くの見どころがあります。
市内を一巡して新庄城址に戻る途中、「石川町ごきげん通り」を通ります。その昔、ここは侍町で武家屋敷が建ち並んでいたことから、この町内の人は今でも三宝に御神酒、おひねりを供え、正座して神輿を迎えます。行列もここを通過する時は、改めて威儀を正して通過するのて最大の見せ場となっています。
九曜の紋
九つの円で形づくられた戸沢家の家紋
新庄藩主戸沢家の家紋。新庄まつりの神輿渡御行列でもこの家紋を見ることができます。 九曜の紋は平安時代より厄よけの重要な文様とされていましたが、戦国時代以降、多くの藩主の家紋とされ、仙台藩伊達家や肥後(熊本)細川家などでも家紋のひとつとされています。
九曜の紋の9つの星の意味は真ん中が「太陽」。
周りの8つの星は「月・火・水・木・金・土・羅喉(らご)・計都(けいと)」です。
ちなみに、羅喉・計都の二つは空想上の星だそうです。
西洋では「☆」で表す星ですが、東洋では「○」と丸印で表現するのがおもしろいですね。
新庄まつりの山車とは
各町内が華やかさと卓越した技を競い合う山車は、新庄まつりの主役です。
新庄まつりの山車を、市民は「やたい」と呼んでいます。町衆は若連という組織を作り、毎年町内単位で山車を作ります。題材は能・歌舞伎や歴史物話・伝説などから選び、等身大の人形を中心に、山・館・花・滝などを周りに配します。
山車徹底解剖
山車は神を招くための道標であり、神へのお供え物
神に捧げるものであるからには季節を問わず、春には春の美、秋には秋の美、
最も美しい花々を供えるという考えが山車作りには根付いています。
1人形 にんぎょう
人形の頭と手、露出した足は、人形師の野川家から借りたもので、彫刻したものと型抜きしたものがあり、胴体はワラをさらしで巻いて作ります。人の化身で魂が入っています。
2動物/生物 どうぶつ/いきもの
大蛇や竜・キツネなど、題材によって作られます。動物の毛並みには断熱材のガラス槻維を使うなど、本物らしく見せるよう工夫を凝らします。
3山 やま
山は神を招くところ。どの山車にも山は作られ、一番最初に作ります。段ボールや金網などに和紙を貼り、町内独特の色を塗ります。
4館 やかた
豪華な館は町内の誇りです。町内の財産として大切に保管し、毎年場面に合わせて色や仕上げを調整します。
5滝 たき
山には必ず滝がつきます。滝は水の神様を表します。
6松 まつ
松は神を招く目印とされています。山車には必ず飾ります。金と銀の短冊が下げられ、一層華やかになります。
7桜 さくら
松・ぼたんとともに、桜は山車に欠かせない三種の神器。少ないと淋しいものです。松と同様、これにも金と銀の短冊が飾られます。
8牡丹 ぼたん
ぼたんは女性の姿を表すと言われています。花をくくりつけるのは、春にピンクの花をつけるガザ木で、釘がよくききます。
9紅葉 もみじ
紅葉は山車をにぎやかにするのには最高の飾り物です。もみじやあやめ、牡丹などは降臨した神をもてなす供物の意味もあるようです。
10波・波しぶき
海の波と川の波では違います。海の波は青地に白を描き、川の波は白地に青を描きます。波しぶきは、本物らしく波が揺れている感じを出すために、竹の棒などの先に粘土をつけて。重みをつけています。
11はりだし(舟)
山車の先頭部分は「はりだし」と呼ばれ、舟のへさきのようになっているので「舟」とも呼ばれます。
12幕の中
格納庫になっています。宵まつりに山車をライトアップする発電機もここに取り付けます。
風流とは
題名の前に必ず付く「風流」は、「華やかに雅びをこらす」という意味で、わざと大袈裟に飾りをつけた華美な服装で、面白おかしく歌舞伎や物語の場面を再現し、時空を超越するという意味に解釈されています。
これがあるため、時代考証にとらわれず、季節や空間を超えて独特な各町内の山車が作られます。
山車運行を支える人々
囃子
町衆が山車作りに精を出している頃、
在方の村々では、若衆が集まり囃子の練習に励んでいます。
7月の涼しい夜、聞こえてくる新庄囃子。それを耳にして新庄人は、はじめてまつりを身近に感じ、その日の到来を指折り数えだす。新庄まつり当日、遠くに聞こえる囃子の音色に引き寄せられ、家人もまつり客も自然に通りまで歩を運び、山車の通過を待ちわびる。 そういわれるほど、新庄囃子は新庄人にとって大きな存在です。
新庄囃子は、花車大八という侠客が京都祇園祭りの囃子を基に作曲したと伝えられています。しかし、それをうかがわせるような古い史料や記録も少なく、ただ一つ、天保五年(一八三四)に編まれた「新荘御国産名物尽し」にある「川口祇苑(園)ばやし」(西前頭三七枚目)の記載があるものの、新庄まつりとの関わりについては不明で、いつごろ現在のような形になったかは分かっていません。
囃子の演奏技術はそれぞれの地域の秘伝であり、他の地域に持ち出すことができなかったことと、楽譜がなく口伝のため、それぞれ少しずつ異なったものになっています。
囃子方の構成は太鼓が4人、笛吹きが約15人、鉦が約15人、三味線が2~4人の30人~40人編成です。
鹿子踊り
8月26日には、萩野と仁田山集落に古くから伝わる民俗芸能
萩野鹿子踊・仁田山鹿子踊が、新庄城址戸沢神社と護国神社に奉納されます。
鹿子踊は、7人の踊り手と2人の地方で構成されます。
踊り手はカモシカをかたどった鹿子頭に膝まで垂らした袋状の幕を付けて、腹に羯鼓と呼ぶ小太鼓を抱えて踊ります。主役は中鹿子で、両脇には勝鹿子と負鹿子が、その後ろに前舞子・後舞子が2人ずつ4人が付くという隊形をとり、この7頭が絡み合う「狂い」という場面がクライマックスになります。地方は垂れ布の付いた饅頭笠をかぶり、着流し姿で太い竹で作った「ささら」という楽器をすり鳴らしながら御詠歌調の唄を歌います。
この鹿子踊は、鹿子が背負っている幟の文字「十日風」・「五日雨」が示すように、この地方では十日ごとに風が吹き、五日ごとに雨が降ると豊作になるという言い伝えから、五穀豊穣を祈願する踊りと考えられています。
またカモシカを模した鹿子踊は全国的に非常にめずらしいものです。
萩野鹿子踊
萩野鹿子踊の歴史
起源等についてははっきりしてないが、文禄慶長の頃、既に今の様な姿であった事は、最上義光公が領内の鹿子踊を集めて踊らせた時、長幕の物最も良しと言った記録がある。最上氏の領内で長幕の鹿子は新庄地方の鹿子踊だけなので、凡そ360年程前ということになる。最上氏改易の後には、戸沢氏が入部したのであるが、二代正誠公が領内の鹿子踊を下屋敷に呼び集め、五穀豊穣領内安全を祈願して踊らせた。これを「鹿子の庭入り」と呼び、村々から庄屋が引率して互いに出来栄えを競い、 良く踊った組には殿様から御所望との声が掛り、この組は二度踊らせられた。これは大そう名誉な事としており、萩野領はいつも御所望されたとの事である。
明治2年以降はこの行事はなくなったが、藩制の頃は義務的な稽古のために御夜食米という手当を賜ったものである。旧藩主が東京に住む様になってからは、庭入り行事がなくなり次第に廃れた。明治13年夏、藩主墓参の折「鹿子踊見たし。」とて呼び出したが、萩野と金沢村の2組しか出 場しなかった。踊り終って正実公は「我が家の踊だから末長く無くしないで欲しい。」と付添いの元庄屋広野吉蔵氏に仰せられたとの事である。
荻野では其の後も踊り続けたが、金沢郷では跡を断ち鹿子踊といえば荻野だけになり、戸沢様帰郷の度に呼び出されて御前に披露する習慣となった。
常盤金太郎先生の初版の最上郡史に、歌詞等も挙げて紹介してますので、ご覧の程をお勧め致します。
前記の庭入の行事や御夜食米の制度もなくなった為でもあるまいが、稽古も薄れてきた時(明治28年)早 坂勘蔵氏が中心となり、広野吉蔵氏の熱心な指導と肝入 りで新しい組ができた。広野家文書(大友儀助氏篇)に 当時の方々の名前が出ているが、歌手として広野運吉氏 の名が見える。翁は若い時から歌が上手だったし踊りも 達者だった。天保3年生れなので明治28年には63才位で、私達は与左衛門爺様と親しんだ。96才まで丈夫でおられた。
また早坂勘蔵氏は小治兵衛爺様と呼ばれ、勝れた芸能者で28年後にも数組の鹿子を育てられ、老躯ながらよく新庄祭りに先達として行った。翁は歌舞伎・お神楽・ 囃子特に太鼓に秀でていた方である。
ついでにお神楽について記すと、萩野にはお神楽の獅 子頭が二つあり、古い方は渡部平四郎氏、新しい方は早 坂丑蔵氏が夫々保管しており、共に立派なものである。
さてこの爺様は、昭和5年春85才で逝かれましたが 弘化3年生れだった。現在、加藤実氏の組が爺様の育て 最古の組になるが、爺さんが良く。実程の踊手は滅多に 出ないもんだ。とべ夕褒めしていた。実氏の育成になる 連中が二組あり、古き鹿子踊の姿を受け継いでいる。
昭和41年9月、無形文化財として県の指定を受け、 ある時は県文化財を代表して県内は勿論、遠く弘前市で の東北芸能大会、栗駒自然公園の指定記念式典、大阪市 等には東北代表としてその古き姿を披露し、更に伊勢神 宮新穀感謝祭にも地方代表として奉納する等、連中一同 これが保存と練磨に精進している。
言い伝えによれば、ある年七頭の鹿子の群れが一頭の 親鹿子に連れられて、此の地方を踊りながら今の新庄市 稲舟、本合海の方より荘内の方に行ったが、梅ヶ崎・月岡周辺ではどこではぐれたか6頭になっていた。そのため金沢郷では6頭で踊り、萩野村のみ7頭で踊ったものだと、私の祖父が話しておった。祖父は梅ヶ崎久兵衛(現斎藤久家)の次男で養子に来たのであるが、以前は 中鹿子をやった人である。
踊りの並び方は前後に3人ずつであったが、歌は荻野 と同じ歌であったという。よくお行(さんげさんげ)の 時に歌わされているのを聞いたものである。
鹿子の通った年は大豊作で、刈取った跡に出た稲にも 実が入り、粉煎用にできる小米が取れたという。
そのため、五穀豊穣・商売繁盛を祈って鹿子踊りする ようになったのである。庭入りの行事の時は、萩野郷中 の希望する者誰もが習っており、その中で上手な若者を 選んで出場したもので、黒沢の甚九郎爺様(出生年不明) は歌が上手で毎年出場したとの事である。
稿を改めて、伝統ある鹿子踊りのテーマ・装束等は勿 論、荻野の出土品や伝承などを基に、郷土の姿を遡ってみたいと思っているが、私の心は、何時までも伝統あるものを無くしないで伝えてほしいと念願することでいつも一杯なのである。
荻野 渡部弘見氏(萩野小学校開校百周年記念誌「百寿」より)
仁田山鹿子踊
仁田山鹿子踊の起因と由来について
仁田山集落に伝承保存されている「鹿子踊り」の起りや、来歴については古文書もなければ資料もなく、その由来など判然としない。ただ、お年寄り・老人達の話しとして今日まで語り伝えられるところによると、むかしのむかし、東の国より土賊討伐のため派遣された多才博学な大将軍が、仁田山の東にある「小倉山」(標高334m)に陣を張り「とりで」を築き、抵抗する悪者どもを討伐し、良民には塩などを与え、食用になる山野草を教え薬用草木・毒草・毒果物、生活する上に必要不可欠なことを伝授、農耕を普及するなど土着民の教化を図られたという。
恐怖におののいていた土着民も大将軍の温情に感泣し、悔悟反省が見え初め、日毎に勤勉な良民が増し、静穏平和な集落に変っていった。
そうしたことから、この地方に駐屯の必要もなくなり、大将軍は「みちのく」に転進することになった。その折り、大将軍は当時の「地頭」を呼び召され、「永いこの地の駐留で兵士達の疲労も烈しい。慰労も兼ね無礼講でIタ、離別の宴を開催するから、土着民の中で舞踊・歌曲のできる者を集めよ。」との命令だったという。
都に遠いこの辺地に、舞楽音曲もなかった「地頭」は、どうしたらよいものか苦慮困惑した。しかし、郷民に伝えねばならない。緊急会議を開いて協議を重ねたが良い知恵も浮かばず、積極的に参加するものもなければ、出演者もいなかった。
その時、日頃から頓智のよい青年「またぎ」助十郎が飛び出し、「恩顧ある大将軍の所望とあらば是非を問わず出場せねばなるまい。もし、これを拒否でもしたら郷民の恥辱。どんな災禍が降りかかるやも知れない、必ずやってお目にかける。俺にまかせよ」と引き受け、屈強な若者9名と語り合い。自宅に「薬用、魔除け」として保管していた熊・鹿などの「がい骨」を冠り、覆面として熊の毛皮・鹿の毛皮に山鳥鷹などの羽根やら草花を結びつけ、縫いぐるみにして着用、「おぼげ」という桶を肩から吊して腹に縛り、二本の「ばち」で打ちながら踊る急造の踊りを考案。
二人の美声を「地方」とし「ささら」という竹製の薬器を摺りながら合いの手を入れ、お盆の15日の吉日に鎮守社(現在仁田山部落の地蔵尊前)に、大将軍以下の将兵を招待、奇妙な装束で勇壮に乱舞奉納した結果は、拍手大喝采であった。大将軍は出場者全員に褒賞として酒肴料を賜り、厚く労をねぎらわれ。この踊りを急造、構成した助十郎に対しては「狩猟御免」の巻き物を下賜された。“駐”本巻き物は仁田山伊藤有さん宅にある。
この急造の踊りにより「地頭」を初め郷民は共に面目をほどこし会を終り、万々才であった。尚、当年は天候が順調で、10日ごとに雨が降り、5日ごとに風が吹き、農作物は大豊作だったという。そのことから仁田山部落では、これを契機にお盆の15日に鹿子踊りを奉納。五穀豊じょう、悪魔退散、郷家安全を慶祝する習わしとして後世に伝承されている。
鹿子踊りの踊り手が背負う「幟り」に、“小倉山”“仁田山”の文字が染め抜いている。小倉山は大将軍が構築した「とりで」で、いわゆる聖域であった。
更に、その周辺で遊び戯れる鹿や獣の、烈しい角つき合いの状態から踊りの「ヒント」を得たといわれ、これを表徴するために書かれたものであろう。
「十日の雨」、「五日の風」は、農作物の成育に欠かせない天の恵み。順調な天候とは、やはり十雨、五風がなければならない。
そうしたことから、これを祈念する農民の心情を含めて書かれたものといわれる。
小倉山頂には、文字は読みとることが不可能であるが、約二十センチ位の角柱が、仁田山部落を眼下に見下ろす如く、現在苔むして鎮座している。部落の人々はこれを、「小倉の唐塔」と称し時折り参詣もしている。
「鹿子踊り」を開張する場合には、鎮守社地蔵尊を筆頭に奉納し、第二番目には、「踊り」を考案された助十郎さん。三番目は「地頭」宅と、今でもその順序を固く、「則て」として護り続けている。
他部落、式典等に出演依頼、遠方に出張公演をする場合など、昔は「巻物戴き」といって、必ず、助十郎さんのお庭で踊ってから他出したものと古老は語り聞かせる。
「鹿子踊り」の唄についても、戸沢藩邸で唄うもの、家老役宅、市内神社仏閣で唄うものなど、二十余種類もある。
郷土芸能として各機関より招聘され、出演したものは列挙にいとまないほどである。
仁田山 星川定雄
(萩野小学校開校百周年記念誌「百寿」より)
現代に甦る歴史絵巻 豪華絢爛山車二十台
毎年8月24・25・26日の3日間、山形県新庄市で開催される新庄まつりは、藩政時代の宝暦6年(1756年)、藩主戸沢正諶とざわまさのぶが、前年の大凶作でうちひしがれている領民に活気と希望を持たせ、豊作を祈願するために、戸沢氏の氏神である城内天満宮の「新祭」を領民あげて行ったのが起源とされています。
260余年の歴史を持つまつりはその長い時の流れの中で、少しずつ変貌を遂げてきました。しかし、いくら歳月を重ねても、変わらなかったものは、人々のまつりにかける情熱です。宵まつり・本まつりに絢爛豪華を競う 山車やたい行列、古式ゆかしい神輿渡御行列みこしとぎょぎょうれつ、新庄城址で踊られる風雅な萩野鹿子踊はぎのししおどり・仁田山鹿子踊にたやまししおどり…。藩政時代をしのぼせる歴史絵巻が繰り広げられる新庄まつりは、この地に住む人々の心の風景に刻み込まれ、これからも未来に伝えられていきます。
勇壮にして華麗な3日間。囃子の響きがまちを包み込み、新庄の夏は、まつりの興奮と熱気でフィナーレを迎えます。
宵まつり
光と影が織りなす歴史絵巻に酔いしれる
勇壮にして華麗な3日間の始まりを告げる8月24日の宵まつり。
昼下がり、各山車若連が精魂込めてつくりあげた山車は、子どもたちに引かれて動き出す。
歌舞伎の名場面や歴史絵巻を再現した山車は、勇壮なまつり囃子とともに市内を巡行し、
夕刻沿道の観衆の歓声を受けアビエスへと向かう。
催事案内
戸沢神社・護国神社・天満宮 8:30
奉納新庄囃子
新庄城址(最上公園)に鎮座する戸沢神社、護国神社、天満宮に新庄囃子を奉納して新庄まつり3日間の無事と安全を祈願します。
アビエス 9:30〜11:00
新庄囃子合同演奏会
山車巡行を前に囃子若連が新庄駅前ふれあい広場アビエスで一堂に会します。各囃子若連ごとに微妙に異なる音色をお楽しみください。
戸沢神社 10:00
戸沢神社例大祭
戸沢家の始祖である戸澤飛彈守衡盛とざわひだのかみひらもり、新庄移封当時の藩主である戸澤右京亮政盛とざわうきょうのすけまさもり、11代藩主戸澤正實とざわのまさざねを祀られている神社「戸沢神社」。厳粛な雰囲気のもと、戸沢神社例大祭が執り行われます。
市内各所 12:00頃〜
山車市内巡行
各山車若連が完成したばかりの山車を市内各方面にお披露目します。それぞれ山車若連ごとに巡行コースは異なるため、市内各所で山車を見ることができます。
中央通り交差点 18:00
灯入式
寄せ笛を合図に始められる灯入式は、天満宮からいただいた御神火を代表者に移す儀式です。
来賓、関係者、各若連代表、氏子総代が会し、宵まつりの成功と士気の高揚を図ります。
南本町十字路 18:30〜
宵まつり山車行列
市内各方面を巡回していた各山車が南本町十字路で合流します。そして山車行列は駅前通りを進みアビエスへと向かいます。アビエスに山車行列が到着する頃には夜のとばりが降り、辺りはすっかり暗くなります。照明の入った山車が人々を光と影が織りなす幽玄の世界へいざないます。
18:30 南本町十字路出発
19:00頃 先頭山車アビエス到着 順次帰路へ
20:30頃 最終山車アビエス終了
※行事日程は天候等により変更する場合があります
本まつり
新庄まつりは最高潮に
新荘天満宮の例大祭である8月25日の本まつり。
藩政時代を思わせる古式ゆかしい神輿渡御行列、宵まつりとは違った表情を見せる本まつり山車行列。
新庄市中は勇壮なまつり囃子と粋なかけ声が包まれ、新庄まつりは最高潮に達する。
催事案内
新荘天満宮 7:00
天満宮例大祭
最上公園の南西隅に位置し、新庄藩主戸沢家の氏神として尊崇された神社「新荘天満宮」。新庄まつりの起源とされている天満宮の「新祭」が始まったのが宝暦6年(1756)。夏の終わりを感じさせる澄んだ空気の早朝、当時を偲ばせるおごそかな雰囲気のもと、天満宮例大祭が執り行われます。
最上公園 8:30
まつり行列出発式
天満宮例大祭に続き、最上公園ではまつり行列出発式が行われます。各若連代表、新庄藩の武士になった氏子総代、1番運行を引き当てた山車が集まり、本まつりの成功と安全を祈願します。
最上公園 9:00〜
神輿渡御行列
神輿渡御行列に参加する氏子総代、各小頭等の面々約200名は、新庄藩の武士になり神輿の警護にあたります。傘回しの妙技、挟箱や熊の積み毛を持つ伊達衆の息の合った足さばき、猿田彦、神輿など数多くの見所を堪能できます。
9:00 最上公園出発
9:45頃 アビエス到着
15:00頃 石川町ごきげん通り
15:45頃
最上公園到着
老人福祉センター前 10:00〜
本まつり山車行列
神輿渡御行列に続き、山車行列が駅前通りを巡行し、駅前ふれあい広場「アビエス」に向かいます。宵まつりとは違った表情を見せる山車、勇壮なまつり囃子に合わせた粋な法被姿の若連衆のかけ声が会場を包み、本まつりは最高潮に。
10:00 老人福祉センター前出発
10:40頃 アビエス到着
16:00頃 北町十字路 山車解散
※行事日程は天候等により変更する場合があります
後まつり
本まつりの興奮が甦る
山車全20台が一堂に展示
本まつりの興奮冷めやらぬ26日の後まつり。
古くから伝わる民俗芸能「鹿子踊」、山車全20台が市内中心街に一堂に集結する「飾り山車」が開催され
新庄まつりの熱気はまだまだ続きます。
催事案内
ゆめりあ「花と緑の交流広場」 9:30〜11:30
小若連囃子演奏会
エントリーした各囃子若連の中学生以下「小若連」が元気な音色を奏でます。小若連と言えど侮るなかれ!各小若連は日頃の練習の成果を発揮し、優勝を目指し競い合います。
戸沢神社・護国神社 10:00〜11:00
奉納 鹿子踊
新庄市北部の萩野と仁田山に古くから伝わる民俗芸能「萩野鹿子踊」「仁田山鹿子踊」が新庄城址の戸沢神社と護国神社に奉納されます。全国的に非常に珍しいカモシカを模したこの鹿子踊は五穀豊穣を祈願する踊りと伝えられています。
駅前通り・本町通り・大町通り・中央通り10:00〜16:00
飾り山車
新庄まつりの山車全20台が中心商店街に一堂に展示され、まつりの興奮が甦ります。今年は若連による山車の見所解説や、まつり囃子演奏体験などを予定しています。
山車行列ではなかなか見ることのできない各若連の細部へのこだわりをじっくりとご観覧ください。
南本町十字路 13:00
街中鹿子踊(萩野鹿子踊)
午前中に最上公園で奉納された鹿子踊が場所を変え南本町十字路にて行われます。飾り山車とともに鹿子踊が街中を彩ります。
南本町十字路 16:00〜
手締式
四方に山車を配した南本町十字路で手締式が執り行われ、勇壮にして華麗な3日間新庄まつりは幕を下ろします。
※行事日程は天候等により変更する場合があります
参考
「新庄まつり」さらに詳しくは下記のリンク記事をご覧ください。
ZIPANG TOKIO 2020「幽玄の世界へといざなう新庄まつり 豪華絢爛二十台の山車に甦る歴史絵巻(前編)」
ZIPANG TOKIO 2020「新庄まつりは戸澤神社例大祭から始まる地域あげてのまつり~そして、百年以上にわたり新庄まつりをささえる野川家とは~(後編)」
ZIPANG TOKIO 2020「ユネスコ無形文化遺産『新庄の夏は新庄まつりでフィナーレを迎える』日本が世界に誇る山・鉾・屋台行事(特別編)」
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
新庄まつり実行委員会 〒996-0022 山形県新庄市住吉町3番8号
新庄商工会議所内 TEL. 0233-22-6855
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表)03(5253)4111
経済産業省 〒100-8901 東京都千代田区霞が関1-3-1 代表電話 03-3501-1511
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
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