はじめに 記事をお届けするに当たり、このたび関東地域を直撃した、強烈な台風15 号による被害は特に炎天下、長期間の停電復旧の遅れで、亡くなられた方々を始め、多岐に亘って被災された皆様へ心よりお見舞い申し上げます。
日本三霊山のひとつ立山は大汝山、雄山、富士の折立の3峰の総称。
雄山頂上の神社「本地仏は阿弥陀如来」
姥神(うばがみ)とは
姥神の定義の説明の前にまず、奪衣婆の説明をさせていただきたい。 奪衣婆とは、死後にあの世へ渡るための三途の川の岸辺にいて、亡者の衣を脱がせる存在である。なぜ脱がせるのかと言うと、その衣を衣領樹(えりょうじゅ)と呼ばれる木の枝にかけるためである。そうすると生前の罪の大きい者は枝が大きく下がり、小さい者はほとんど動かない。亡者の罪はその衣に重さとなって染み込んでいることになる。衣領樹は罪を量るはかりであり、それを審査するのが奪衣婆である。
姥堂跡地から立山三山を望む(向かって右側が立山)
富山県の立山
以前の記事、福江氏の「立山曼荼羅に表徴された常願寺川水系の水神信仰」でも紹介されていますが、富山県の霊峰立山は日本三霊山のひとつとされ、大汝山、雄山、富士の折立の3峰の総称となり、雄山の頂上に神社があります。本地仏は阿弥陀如来です。
立山の血の池地獄
立山の隣にある針の山のような剱岳
立山は平安後期に書かれた『今昔物語集』などの説話集にも登場し、地獄がある場所として、古くから有名でした。鉄分が含まれ赤い色をした血の池地獄や、立山の隣には針の山のような容貌をした剱岳があるなど、まさしく地獄伝承の風景を現実に見ることができます。
芦峅寺と姥堂
立山の麓に芦峅寺があり、その閻魔堂でおんばさまと呼ばれていた最古の姥神像が確認されており、現在は立山博物館に展示されています。「立山の地母神おんばさま」によると、墨書に永和元(1375)年とあり、南北朝時代のものとなります。
立山町芦峅寺の閻魔(えんま)堂で行われる立山信仰の伝承行事「おんば様のお召し替え」
地元の女性たちが「山の神」として親しんでいる姥神様の白装束を着せ替えます。
この姥神像は、姥堂と呼ばれる堂の中に祀られて秘仏とされてきました。この堂には、3体の中心となる像のほか、まわりに古く日本にあった国の数と同じ66体の姥神像があったといいます。立山博物館、芦峅寺閻魔堂に何体かが残されており、現在も見ることができます。
女人救済の布橋灌頂会
この姥堂では、古く布橋灌頂会と呼ばれる儀式が行われていました。修験道では、山に入ることで一度死んだことにし、厳しい道中、つまり地獄を体験し、戻ってくるときには新しい人間として再生し、現世、またはあの世での魂の救済を求めます。
布橋灌頂会の様子。3年に1度、立山町で再現される。
しかし、女性は女人禁制のため山に入れないため、その再生の儀式にかわるものとして布橋灌頂会が行われていました。内容は、三途の川に見立てた川のこちら側(この世)の閻魔堂から、橋の上に敷いた3枚の布の上を目隠しで渡り、向こう側(あの世)にある姥堂へ行き、そのなかで読経することで、魂の救済を求めたものでした。
この儀式で読経が終わると前面の窓が開けられ、そこから立山三山が拝めるといった演出がなされていたようです。
現在も、3年に1度ですが、この布橋灌頂会が立山町で再現されていますのでその幽玄な風景を堪能することができます。
姥神信仰のルーツか
この布橋灌頂会は広く信仰を集めていたこと、また、最古の姥神像が残されていることから、湯殿山の姥神信仰より歴史は古いと思われ、湯殿山の姥神信仰もこの立山がもとではないかと思われます。
女人救済のためのこの立山姥堂の考えがもととなり、出羽三山でも山の入り口、または中腹に姥神像が祀られ、女性はそこまでは山に入り、そこでお参りすることで山頂へお参りしたことと同等のご利益を得ていたと推測されます。
ここからさらに、女人禁制の結界の意味合いで出羽三山を模した山々がそれらの近辺に広がり、これまで見てきたような登山道の中腹に姥神像が祀られることになったと考えられます。
立山博物館に展示されている姥神像(左上が最古のもの)
参考文献
「立山の地母神おんばさま」、立山博物館、二〇〇九年
続く・・・
寄稿文
廣谷知行(ひろたに ともゆき)
姥神信仰研究家
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