ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~雛と紅花の里 河北町~ 「谷地ひなまつりに秘められたお婆ちゃんたちの思いとは・・・みちのくひなまつり発祥の地より(第二話)」

はじめに 記事をお届けするに当たり、先の北海道における地震災害、関西地方ならびに中国四国・九州地方における大雨・地震災害で未だ行方不明、並びに亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。


谷地八幡宮代々所蔵のお雛様(左・中央)と檀家よりお借りしたお雛様が大広間に飾られていて、来る4月2日、3日に開催される「谷地ひなまつり」まで展示されますので、ご参拝の折には是非お立ち寄り下さい。。

谷地八幡宮


溝延最上川渡船場(舟渡の渡し船)

町村合併当時、町内には県営渡船場が二カ所と町営渡船場四カ所、計六カ所の渡船場がありました。数えてみてください。

最後まで残っていたのが町営溝延渡船場でした。それでも昭和五十二年九月からは冬期運航を休みにし、同六十一年度には廃止になりました。

この渡船場は昭和十年代前半までは、約三百メートル程度上流にありました。

江戸時代、出羽三山詣りにきた道者たちに、白岩からこの渡しを越えて、山寺に参詣するための木版刷りの道案内を白岩の宿屋で配っていました。何よりも天童・村山へ結ぶ交通の要衝でした。城米の積み出しもありました。

出羽神社(三神合祭殿) 五重塔(国宝)
羽黒山は、会津や平泉と共に東北仏教文化の中心であっただけに、数々の文化財に富んでいます。山麓の黄金堂は重文に、山内の五重塔は国宝です。古くは瀧水寺の五重塔と言われ、附近には多くの寺院があったが、今はなく五重塔だけが一の坂の登り口左手に素木造り、柿葺、三間五層の優美な姿で聳り立つ杉小立の間に建っています。現在の塔は長慶天皇の文中年間(約600年前)庄内の領主で、羽黒山の別当であった武藤政氏の再建と伝えられています。

月山神社本宮
月山は海抜1,984m、世界でも珍しい半円形のアスピーデ型火山で、頂上の「おむろ」に月山神社があり、月読命を祀っています。約千年前につくられた延喜式神名帳にのる名神大社で古い時代から朝廷を始め庶民の信仰が篤く、山形市には南北朝時代の貞治7年の銘のある月山結集碑があり、一村百余人の登拝講中のあった事を伝えています。もと東北唯一の官幣大社で、国の殊遇を受けた。 神社は水を司る農業神として又航海漁澇の神として広く衆庶の信仰をあつめています。

湯殿山本宮
三山が神仏習合であった時代、三山を抖擻(とそう)する修行を「三関三渡」といいました。羽黒山は観音菩薩(現在)、月山は阿弥陀如来(過去)、葉山や薬師岳は薬師如来(未来)とされ、それらの加護と導きにより現在・過去・未来の三関を乗り越え、湯殿山の大日如来(三関を超越した世界)の宝窟に安住し、即身成仏(生きたまま悟りを開く)の妙果を得るというものであります。裸足になってご神体に登拝するのは、大日如来と一体になって感得することなのです。また湯殿山は神の世界ゆえ、古来より人工は許されず社殿を設けてありません。

山寺「宝珠山 立石寺」
当時、この地を訪れた慈覚大師は土地の主より砂金千両・麻布三千反をもって周囲十里四方を買い上げ寺領とし、堂塔三百余をもってこの地の布教に勤められました。開山の際には本山延暦寺より伝教大師が灯された不滅の法灯を分けられ、また開祖慈覚大師の霊位に捧げるために香を絶やさず、大師が当山に伝えた四年を一区切りとした不断の写経行を護る寺院となりました。

開山堂 kaizando
百丈岩の上に立つ開山堂は立石寺を開かれた慈覚大師の御堂で、この御堂が建つ崖下にある自然窟に大師の御遺骸が金棺に入れられ埋葬されています。御堂には大師の木造の尊像が安置されており、朝夕、食飯と香が絶やさず供えられ護られています。普段は扉の閉じられた御堂ですが、年に一度、大師のご命日に当たる一月十四日に法要が行われ御開帳されます。 向かって左、岩の上の赤い小さな堂は写経を納める納経堂で、山内で最も古い建物です。ここに奥之院で四年をかけ写経された法華経が納められます。県指定文化財で、昭和六十二年に解体修理が行われました。またここより向かって右上には五大明王を奉る五大堂があります。舞台造りのこの御堂からは山寺を一望でき、絶景を楽しむことができます。


最上川向かいには、江戸時代から広大な溝延分の畑地が広がっていました。昔は紅花、明治中期からは桑、今は桜桃が主作物でしょうか。


昭和二十年代までは春蚕・夏秋蚕・初秋蚕の盛りには、荷車やリヤカーが六・七十台も渡船場に並ぶ風景があったといいます。

最上川の町営溝延渡船場(舟戸の渡し舟)

嫁時代、肩にくい込む桑を入れた"バカはけご"※の重みを渡船場と一緒に思い出すお婆ちゃん方もいます。船頭さんのこと、大水と舟止めのこと、流水の変化や個人の持舟のこと、お婆ちゃんたちにお聞きしたいことは沢山あります。今の私たちの知らない世界です・・・

今はない村のお婆ちゃんたちの大事な大事な足でした。

※バカデカい背負篭(ショイゴ)のこと。通常 " ハケゴ "とは山菜採りや農作業に一周り小さく便利な腰カゴ(ハケゴ)を指す。  


河北町とはどの辺り?

河北町は、山形県のほぼ中央にあって、万年雪を抱く月山や、雄大な朝日岳、さらには、樹氷で有名な蔵王を遠くに望みながら、山形県の母なる川、最上川と清流寒河江川に囲まれた、風光明媚な環境の中にあります。

山形空港を表玄関とし、山形新幹線さくらんぼ東根駅、山形自動車道寒河江インターチェンジからは車で15分の距離にあり、東北中央自動車道東根インターチェンジからは、わずか7分のところです。

まさに、これが山形県の世界に誇る「蔵王」の樹氷です。河北町はこの蔵王を遠くに望み、山形県の母なる川と清流に囲まれた「形勝の地」にあります。


蔵王樹氷まつり
雪質抜群のパウダースノーと変化に富んだゲレンデ・コースを持つ蔵王温泉スキー場。 別名スノーモンスターとも呼ばれる樹氷は蔵王の特別な気候が生み出す芸術作品と言えます。そんな樹氷の成長時期となる12月下旬から3月はじめにかけて「蔵王樹氷まつり」が行われます。樹氷まつりでは「冬のHANABI」や蔵王温泉スキー場ゲレンデにあるパワースポットを巡る「冬の開運回遊」、夜のゲレンデを松明(LED照明)を掲げて滑り降りる蔵王名物「1,000人松明滑走」などさまざまなイベントが開催されます。期間中は樹氷のデイライトとライトアップも行われます。
河北町を訪ねられた折には、世界に誇る蔵王の樹氷・蔵王温泉スキー場もお楽しみください


雛と紅花の里 河北町

江戸中期以降、最上紅花の集散がこの地で盛んに行われました。
町には、天正年間(1573年~1592年)の紅の生産を物語る資料が残っており、江戸時代も寛政年間(1789年~1801年)ごろから安政年間(1854年~1860年)あたりまでは、いわゆる最上千駄(「紅もち」生産が一駄約120kg×馬1000頭)の時代で、全国生産の50%をこの村山地方で生産していました。


紅花は古代中国や、朝鮮半島から5~6世紀頃渡来したとされていましたが、最近では奈良桜井市の纏向遺跡(弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡)から大規模な紅花染色が行われたと推測される側溝跡が発見され、その渡来時期が大幅に見直される事態になりつつあるようです。当初は栽培地が都周辺に限られていたものが、やがて全国各地に拡がり、次第に雪深い東北地方等でも栽培されるようになりました。紅花は 岩手県以南の日本全国で栽培されたことになりますが、特にこの村山盆地周辺が全国生産の半数を占めるようになったのは、土地が紅花栽培に適しており、換金作物として重宝されたためといわれています。


この町には最盛期に20軒に及ぶ紅花荷主問屋があり、更に仲買人の花買仲間の目早やサンベと呼ばれる人達が25人から30人を数え、山形市につぐ紅花の一大集散地でありました。


このようにして生産された紅花は、京都や大阪へ出荷されました。寛文年間(1661年~ 1673年)幕府の命を受けた河村瑞賢の差配などもあって、江戸・大阪への物資の輸送が最上川を利用した酒田出しになると、産物の流れがおのずと関西方面に移り、京都・大阪には近江商人や伊勢商人が定住し、最上の商人たちも最上店や谷地店と呼ばれるいわば出張店を持つようになりました。当地方の物産である米・紅花・大豆・青苧・漆・真綿・油などを移出した、その帰り荷として、関西方面から呉服地・繰り綿・瀬戸物・塩・砂糖・小間物等が運び込まれました。


特に調度品・絵画・書籍・京人形などの美術工芸品が数多く移入されました。現在貴重な文化財として町内に数多く残る雛人形もまた、その一つでした。


谷地ひな市の推移

天正時代(1573年~1591年)の頃、谷地城主白鳥十郎長久公は谷地地区に毎月十八もの市を設け大変な賑わいをみせていました。その中に北口六斎といい、二と六の付く日に市が設けられていました。3月2日に雛人形や節句の食材・用品が軒を連らねて行われるようになってから、いつしか「節句市」「ひな市」と呼ばれ、近郷近在の人出が盛況をみるようになりました。


その理由は、尾花沢・大石田・楯岡・東根・左沢・中山などの近郷の雛市が終わり、最終に 谷地の雛市が開かれたため、3月3日の「節句」の前日に行われたこの市が、近郷の雛市のしめくくりとなり時機をえた催事でもあったためです。


また、市に面した紅商家や富裕家で当時「雛」の一般公開があったようで、現在もこの風習が受け継がれています。その素晴らしい豪華絢爛たる「雛」の見学も魅力の一つであったろうと思われます。 ことのほか北口六斎が混雑したことから、安政4年(1857年)北口通り中央に中堰が造られ、上市東・下市西と分離し、緩和策をとったこともあるようです。


月おくれの雛節句

旧暦(陰暦)の意識が日常生活より遠のき、恒例の祭日の固定化が叫ばれ、季節的にも月遅れの4月2日・3日を「雛市」「雛まつり」と変更したのが昭和36年でした。以来今日に至っています。


紅花資料館

この資料館は、近郷きっての富豪だった堀米四郎兵衛の屋敷跡です。屋敷の総面積は約80aで、かつては土蔵が6棟、板倉が7棟もありましたが、老朽化が甚だしく、母屋をはじめ多くの建物が整理され解体されてしまいました。この屋敷には武器や生活用品および古文書など5,000点を保存しています。昭和57年にこれらの寄贈を受けた町が、漸次整備修復を加え、昭和59年5月に「紅花資料館」として開館したものです。

紅花資料館の展示雛の説明を熱心に聞くお婆ちゃんたち。おひなさまは幾つになっても女性たちの憧れです。(これまでの谷地ひなまつりより)
説明している方の法被に注目!紅花色ですね。色彩療法・色彩心理からすると橙色は目で見てもまた、下着や和・洋服など身に着けても元気が出る色と言われています。皆さん活き活きとしておられますね~。スイスなどヨーロッパでは病院で色彩療法の診療を受けることが出来ます。色彩療法のための専用機器などもありますよ。

 

紅花資料館のほかでも一般公開(有料)を行っております。紅花資料館から近いところにありますので、判りづらい方には、河北町観光協会(紅花資料館)の方へお問合せ下さいね?

一般公開は「鈴木英友家」「鈴木昌之家」「細谷昌平家」「國井暠一家 」「竹谷義一邸 」「細谷次郎邸」の六邸になります。
お問い合わせは河北町観光協会(紅花資料館)☎: 0237-72-3787


みちのく最古のひなまつりぜひ訪ねてみて下さい!4月2日(火)と3日(水)開催です‼


続く・・・



鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使



協力(順不同・敬称略)

谷地八幡宮 〒999-3511 山形県西村山郡河北町谷地224電話: 0237-72-2149

河北町役場 〒999-3511 山形県西村山郡河北町谷地戊81電話: 0237-73-2111

一般社団法人 河北町観光協会
〒999-3511 山形県西村山郡河北町谷地己885−1紅花資料館 電話: 0237-72-3787

公益社団法人 山形県観光物産協会
〒990-0827 山形県山形市城南町1丁目1−1霞城セントラル 電話: 023-647-2333

出羽三山神社 〒997-0292 山形県鶴岡市羽黒町手向字手向7 TEL:0235-62-2355

宝珠山 立石寺 〒999-3301 山形県山形市山寺4456-1 TEL:023-695-2843

山寺観光協会 〒999-3301 山形県山形市山寺4495-15 TEL:023-695-2816

山形市役所 〒990-8540 山形県山形市旅篭町二丁目3番25号 電話:023-641-1212(代表)

文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表)03(5253)4111



参考

ZIPANG TOKIO 2020「日野ひなまつり紀行~昔と今、街を巡る、時を巡る~近江日野商人のお雛様とお屋敷(桟敷窓)拝観」

ZIPANG TOKIO 2020「特別展 尾張徳川家の雛まつり と 徳川美術館の建築」



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ZIPANG-3 TOKIO 2020

2020年東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、神社仏閣、祭礼、伝統芸能、風習、匠の技の美、世界遺産、日本遺産、国宝等サイトを通じて平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです。

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