はじめに 記事をお届けするに当たり、先の北海道における地震災害、関西地方ならびに中国四国・九州地方における大雨・地震災害で未だ行方不明、並びに亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
「春の高山祭」定番ですが、やはりこの写真がトップです・・・
赤い中橋宮川の雪景色(昔々の話。この欄干から雪降ろしをした雪を落としたものです)
夜の屋台もいいものです!山里の祭りは提灯がどんなに明るくても哀愁が・・・
古い町並みをぬって屋根すれすれで屋台を通す、これも飛騨の匠の技かな~⁇
全ての屋台が勢ぞろい。壮観ですよ・・・!
春の高山祭
春の高山祭(山王祭)とは
16世紀後半から17世紀が起源とされる高山祭。高山祭とは春の「山王祭」と秋の「八幡祭」、2つの祭をさす総称で、高山の人々に大切に守り継がれてきました。
このうち、高山に春の訪れを告げる「山王祭」は、旧高山城下町南半分の氏神様である日枝神社(山王様)の例祭です。毎年4月14日・15日、祭の舞台となる安川通りの南側・上町には、「山王祭」の屋台組の宝である屋台12台が登場。うち3台がからくり奉納を行うほか、祭行事では賑やかな伝統芸能も繰り広げられます。
神楽台(春の高山祭)
神楽台(かぐらたい) 上一之町上組
<沿革>
古くから山王祭の神楽、獅子舞を主管し、初めの頃は白木のわくに太鼓をつって二人でかついだものでした。文化年間(1804年~1818年)、四輪の屋台形にし、嘉永七年(1854年)の大改修により現台形となりました。明治26年(1893年)改修。その後数度の改修が行われています。
<特色>
祭礼に際しては、侍烏帽子(さむらいえぼし)、素襖(すおう)姿の五人の楽人を乗せて獅子舞を付随させ、全屋台に先行します。曲は「場ならし」「高い山」など多数あり、場所により使い分けられます。嘉永の改修のとき、金具に一坪(3.3平方センチメートル)あたり一匁(4グラム)の純金が使用されました。
三番叟(春の高山祭)
三番叟(さんばそう) 上一之町中組
<沿革>
宝歴年間(1751~1764)の創建で、台銘は「恩雀(おんじゃく)」、天明年間(1781~1789)に翁操りを取り入れ「翁(おきな)台」と改銘、文化三年(1806)に雛鶴(ひなずる)三番叟の謡曲による操り人形に替え、台銘も三番叟となりました。天保八年(1837)、現在の台形に改造され、大正七年と昭和四十一年に大修理が行われました。
<特色>
二十五条の細綱で操るからくりがあります。童形の三番叟人形が所作を演じつつ、機関(からくり)樋の先端へ移行した聯台(れんだい)上の扇子と鈴を持ち、面筥(めんばこ)に顔を伏せ、翁の面を被り、謡曲「浦島(うらしま)」に和して仕舞を演ずるという構成です。屋台曳行順のくじは、必ず「一番」を引くことになっていて、神楽台についで他の屋台に先行する慣例となっています。
麒麟台(春の高山祭)
麒麟台(きりんたい) 上一之町下組
<沿革>
創建年代未詳。天明4年(1784年)の火災に焼失し、再建されたものが文化3年(1806年)の記録に「鉄輪(かんなわ)」の名でみえます。翌文化4年「よしの静(しずか)」と改名し、文化10年(1813年)、以前から組内に金森家から拝領した麒麟の香炉を保管していたことにより、「麒麟台」と改名されました。弘化2年(1845年)大改修、大正10年改修。昭和46年修理。
<特色>
台名の示す通り、屋根飾りとして一対の麒麟を載せ、中段、上段の上部の木鼻(きばな)の彫刻も麒麟の意匠となっています。下段の唐子群遊彫刻は谷口与鹿の作で神技といわれ、屋台彫刻中の逸品です。豪華絢爛な屋台です。
石橋台(春の高山祭)
<沿革>
宝暦創建説と天明創建説があります。当初から長唄の石橋の操り人形があったため、台名もこれに由来します。弘化―嘉永年間(1844年から1854年)に改修。文久3年(1863年)大改修し、旧台を古川町に譲りました。
<特色>
からくり人形は長唄石橋物(しゃっきょうもの)のうち、「英執着獅子(はやぶさしゅうちゃくじし)」を取り入れたものです。
濃艶(のうえん)な美女が踊っているうち、狂い獅子に変身し、また元の姿に戻り両手に牡丹の花を持って千秋万歳(せんしゅうばんぜい)と舞い納める構成です。
明治25年(1892年)に風紀上よくないと中止されましたが、昭和59年に復活されました。重厚で調和のとれた屋台です。
五台山(春の高山祭)
五台山(ごだいさん) 上二之町中町
<沿革>
創建年代未詳。寛政年間(1789年から1801年)には「盧生(ろせい)」の台名で操り人形がありました。文化年間(1804年から1818年)に改修。中国名山の「五台山」と名を改めました。天保3年(1832年)の火災で焼失後、天保8年(1837年)再建。明治20年から23年改修。昭和48年修理。
<特色>
朱塗り格子を透かして、回転する御所車がみえます。車は京都御所御用車師中川万吉の作。獅子牡丹の刺繍(ししゅう)幕は円山応挙が下絵を描き、下段の飛獅子彫刻は幕末の左甚五郎といわれた諏訪の立川和四郎作。見送り幕の雲龍昇天図は明治の帝室技芸員幸野楳嶺(こうのばいれい)の原作で、京都西陣で製作に半年を要した綴錦織の大作であり、各所に由緒を誇る屋台です。
鳳凰台(春の高山祭)
鳳凰台(ほうおうたい) 上二之町下組
<沿革>
創建年代未詳。寛政11年(1799年)、大黒天のからくりの人形を大国台に譲り、その後文化4年(1807年)には「迦陵頻(かりょうびん)」の名で曳行しています。またその当時、「鹿島(かしま)」と呼ばれていたこともありますが、文政5年(1822年)に「鳳凰台」と改称しました。天保元年(1830年)から改修を行なったが、天保3年の火災で焼失、天保6年から8年に再建されました。明治8年(1875年)、大正年間に小修理。昭和37年から39年に大修理。
<特色>
屋根中央部に赤木白毛の長い鉾(ほこ)をたて、根部に緋羅紗(ひしゃら)の屋根覆いをまとっています。赤黒黄3色の大幕はオランダ古渡りの珍しい毛織りといわれています。全体に堅牢で、金具も目立たなくして木材の美しさを強調しています。狭い道路の通行に備え、上段蛇腹(じゃばら)形支輪(しりん)が伸縮するようになっています。
恵比須台(春の高山祭)
恵比須台(えびすたい) 上三之町上組
<沿革>
創建年代未詳。明和年間(1764年から1772年)、越前宰相(さいしょう)より大幕などが下附されたことは、高山富裕町人の大名貸を想起させ、当時すでに屋台があったことがわかります。初めは「花子(はなこ)」と呼び文化7年(1810年)に殺生石(せっしょうせき)の操り人形に替えて「殺生石」と改名。祭神に恵比須神を祀ることから「蛭子(えびす)」と呼ばれることもあったが、天保年間(1830年から1844年)頃から「恵比須台」となりました。弘化3年(1846年)から3年間かけて大改造。明治18年、昭和43年修理。
<特色>
下段の龍、中段の獅子、手長足長(てながあしなが)像の彫刻はいずれも名工谷口与鹿が情熱を傾けた会心の作。金具の鍍金(ときん)には14キログラムの純金が使用されています。見送りは幡(はた)見送りといわれる形式で、西欧の風俗を画材とした綴錦織(つづれにしきおり)。鯉の伊達柱(だてばしら)は藤原家孝卿の牛車に使用されたものです。
龍神台(春の高山祭)
龍神台(りゅうじんたい) 上三之町中組
<沿革>
創建年代未詳。安永4年(1775年)に弁財天像に猿楽を舞わせたとの記録があり、文化4年(1807年)の屋台曳順の「龍神」の台名がみえます。またこの頃、竹生島(ちくぶしま)弁財天にちなみ、「竹生島」とも呼ばれました。文化12年(1815年)に改造し、弘化3年(1846年)に修理。明治13年(1880年)から3年がかりで再改造され、唐破風屋根を現在の切破風に替えています。昭和41年、半丸窓上に龍彫刻が取り付けられました。
<特色>
32条の糸を操って龍神のはなれからくりが演じれます。これは、竹生島の龍神にちなんだもので、8尺余りの橋樋の先端に、唐子によって運ばれた壷の中から突然赫(あか)ら顔の龍神が紙吹雪をあげて現れ、荒々しく怒り舞うという構成です。見送りは試楽祭には望月玉泉(もちづきぎょくせん)筆の雲龍昇天図、本楽祭は久邇宮(くにのみや)朝彦親王の書で、明治天皇の鳳輦の裂れで表裂されたものを用いています。
崑崗台(春の高山祭)
崑崗台(こんこうたい) 片原町
<沿革>
創建年代未詳。安永3年(1774年)の組内古記録があるが、文化4年(1807年)には「花手(はなて)まり」の名で曳行をしています。その後、「林和靖(りんなせい)」と改称の後、中国にある金銀の産地「崑崗(こんこう)」にちなみ、「崑崗台」と改称されました。嘉永2年(1849年)に大改造。昭和9年から11年、昭和41年修理。
<特色>
天保年間頃(1830年から1844年)までは中国の故事により、林和靖と唐子のからくり人形がありました。棟両端の金幣、屋根上の宝珠は「崑崗」が中国随一の金銀の産地であることに由来し、金塊をあらわしています。見送りは中国産の刺繍、寿老と鹿の図です。
琴高台(春の高山祭)
琴高台(きんこうたい) 本町1丁目
<沿革>
創建年代未詳。文化4年(1807年)に「布袋(ほてい)」の名で曳行された記録があります。文化12年(1815年)には飛騨の漢学者赤田臥牛(がぎゅう)が「支那列仙伝(しなれつせんでん)」から「琴高、赤鯉に座し来る」の故事を引いて現台名に改められました。天保9年(1838年)に、組内に居住していた谷口与鹿が中心となり大改造。明治26年(1893年)、昭和32年、昭和41年修理。
<特色>
鯉魚と波浪を刺繍した大幕を用い、伊達柱(だてばしら)は黒塗地に鯉の滝昇りの大金具を打つ。欄間にも与鹿の鯉魚遊泳の彫刻があるなど、鯉づくしの意匠となっています。本見送りは徳川家16代家達書の琴高仙人の詩、替見送りは垣内雲りん(かいとううんりん)の琴高仙人図です。
大国台(春の高山祭)
大国台(だいこくたい) 上川原町
<沿革>
寛政8年(1796年)に創建され、日枝神社の宮寺松樹院にちなみ、「松樹(しょうじゅ)台」の名で曳行(えいこう)していた記録があります。寛政11年(1799年)、上ニ之町の現在の鳳凰台組から大黒天像を譲り受けて「大国台」と改称されました。弘化4年(1847年)に大改修。明治16年(1883年)、大正13年、昭和39年に修理。
<特色>
構造上に工夫がこらされ、屋根棟と上段の縁(ふち)が違う動きをして、しなう美しさを出しています。祭神となっている大国天の人形はもとは腹中から七福神が舞い出るからくり人形であったといいいます。毎年、くじによって決められる屋台曳行順で、この屋台の順位が若ければその年は米価が高く、その反対であれば安いという伝承があります。中段欄間の石田春皐作飛龍、下絵の土村栄斎(どむらえいさい)作獅子の彫刻が引き立っています。
青龍台(春の高山祭)
青龍台(せいりゅうたい) 川原町
<沿革>
創建年代未詳。明和3年(1766年)に存在した記録があります。文化4年(1807年)には、「道成寺(どうじょうじ)」の名で曳行(えいこう)しており、娘道成寺のからくりを演じたといいます。文化12年(1815年)に改修。天保3年(1832年)、火災により焼失し、嘉永4年(1851年)に再建されました。この頃、台名も「青龍台」と改められました。明治23年(1890年)大改修。明治40年、明治30年修理。
<特色>
国主金森氏が、特に日枝神社を崇敬すること篤(あつ)く、この屋台組が神社膝元(ひざもと)の重要地区にあったことなどから、金森氏の代行として宮本(みやもと)と呼ばれて、家紋梅鉢を使用し祭事を主宰する特権を持っていました。これは明治24年に宮本が輪番制になるまで続いた。台形も3層で、天守閣型の屋根(入母屋造)となっており、他の屋台と趣を異にしています。
伝統を受け継ぐ祭行事の見どころ
御巡幸(祭行列)
神輿(みこし)を中心に、獅子舞や闘鶏楽(とうけいらく)、裃姿(かみしもすがた)の警固など総勢数百名の大行列が町を巡ります。14日午後に日枝神社を出発し氏子の家々を巡った後、神輿はお旅所で一泊。15日午後、お旅所を出発し、日枝神社へ戻ります。昔ながらの衣裳も必見です。
屋台曳き揃え
飛騨の匠の技を伝える「山王祭」の屋台は、国の重要有形民俗文化財に指定されており、11台が勢揃いします。
※大國台は修理中のため今年は公開されません。
斐太高校の伝統として長く伝わる『白線流し』についてご紹介します。
白線流しとは
白線流し・・・。
例年3月1日の正午頃、卒業証書授与式後に行われる旧制中学以来の伝統行事。
学校前 を流れる大八賀川をはさんで校舎側に在校生が、対岸には卒業生が思い出深い学び舎に向かって立ち、互いに惜別の歌を歌いながら感慨にふけります。そのとき、卒業生らは制帽の白線とセーラー服のネクタイを1本に結び合わせて永遠の友情を誓いながら、早春の川面に3年間のなつかしい思いを込めて流すのです。
白線は川を汚すことにならないように、下流で在校生の手によって拾い上げられます。約半世紀にわ たって続けられてきた伝統ある行事です。
現在は、男女共学で、学帽の購入も自由になったため、男子の白線は入学時に生徒会からプレゼントされたものを使っています。
揺籃期(昭和13年頃~昭和19年頃)
その始まりは定かではありませんが、旧制岐阜県斐太中学校第50回卒業生の前後に自然発生的に行われるようになったとされています。その頃はまだ、卒業式の日に合崎橋や鍛冶橋で数人が各自ばらばらに白線を取って川に流したというようなものでした.そうしているうちに、だんだん大勢の卒業生が白線を流すようになり、「白線流し」という行事に発展していきました。
確立期(昭和19年頃~昭和32年頃)
昭和17、8年頃から「巴城ケ丘別離の歌」が歌われるようになりました。この曲は旧制岐阜県斐太中学校第57回卒業生の河内敏明氏(名古屋市在住)の作詞・作曲によるもので、当時は楽譜もなく、口伝で歌い継がれてきました。しかしこの頃でも全員が1本の白線を結ぶには至らず、親しいもの同士でそれぞれ結び合うような形でした。この頃はまだ「送別歌」というものはなく、在校生は「蒙古放浪歌」という大正時代の流行歌を歌って送りました。しかし楽譜などは見当たらず、節もまちまちで、当時の在校生が歌った節回しも部分的には旧制斐太中学校独自のものでした。
昭和21年(創立60周年)頃より盛んになり、昭和23年に旧制中学校から高校になると一層盛んになりました。特に昭和23年には学区制がひかれ、第1回の高校卒業生と一緒にやむなく学校を去らねばならない1・2年生もこれに参加しました。最初は合崎橋で行っていましたが、それだけで飽き足らずに鍛冶橋まで練り歩き、そこで再度白線流しを行いました。そしてその後、肩を組んでジグザグ行進をしたり、輪を組んでストームなどを行いました。警察官が出て、自動車を一時止めるなどの交通規制まで行われました。しかしまだ行事としてまとまったものではなく、現在のような生徒会の行事といったようなも のではありませんでした。あくまで自主的に集まって即興的に行われたのです。
その後しばらくは盛んに行われましたが、国立大学の旧1期校の入試が3月3日に行われて卒業生が卒業証書授与式を欠席するということが増えるなどしたため、次第に活気がなくなっていきました。
発展期(昭和32年頃~現在)
昭和32年に、高山地区高校再配置計画の実施によって、岐阜県立斐太高等学校が再び普通科高校になると、白線流しも徐々に復活してきました。 昭和35年には、岐阜県立斐太高等学校第12回卒業生金子暁男氏が作詞し、同じく第13回卒業生阪巻正則氏が作曲した「送別歌」が生まれました。それまで何となく歌われてきた「蒙古放浪歌」は、時代の流れもあって歌われなくなりました。
昭和52年には創立90周年を記念して、「校歌」・「斐高行進曲」と共に、「巴城ヶ丘別離の歌」・ 「送別歌」の4曲からなるレコードが作製されました。そして白線流しはいつしか、生徒会の「卒業生を送る行事」として定着し、現在に至っています。 戦後世相が変わっていく中で、この白線流しは続けられました。
昭和24年以来男女共学になり、男子の白線と女子のネクタイとを一本に結んで、将来までの友情を誓って歌を歌いながら川面に流していくようになりました。このような旧制時代からの行事と、さらに男女の生徒が1本の白線とネクタイで結ばれるというロマンめいたこの行事は、マスコミに注目されることとなり、この10年ほどの間に新聞・テレビなどに報道され、だんだん全国に知られるようになってきました。昭和53年頃には、当時の流行歌手によって「白線流し」というレコードが発売されました。時々ラジオなどでそのメロディーが流されましたが、流行するまでには至りませんでした。
白線流しの様式は昭和40年頃より生徒会の行事となりました。そして場所は合崎橋の下流に卒業生と在校生が川をはさんで対面して行われました。昭和52年に現在の歩道橋が出来ました。そこで昭和52年3月からは合崎橋上流に場所を移し、歩道橋の上からの進行のもとに、生徒会長の挨拶・在校生の送別歌・卒業生の巴城ヶ丘別離の歌(ここで白線を流し始める)の順で行う形式になりました。
また平成8年にはフジテレビ系で『白線流し』という名の学園ドラマが放送され、話題をよびました。
(「斐太高校百年史」より抜粋)
熊崎さん、公平さん、まめなかな?いっぺん、あおまいか…
ZIPANG TOKIO 2020「春の高山祭(山王祭)と 55年ぶりに春と秋の祭屋台23台曳き揃え ユネスコ無形文化遺産登録記念『高山祭屋台の総曳き揃え』のご案内」
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