ZIPANG-3 TOKIO 2020「日本の町『岐阜』信長の愛した長良川鵜飼 開幕」 

はじめに 記事をお届けするに当たり、先の北海道における地震災害、関西地方ならびに中国四国・九州地方における大雨・地震災害で未だ行方不明、並びに亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。


織田信長の居城「岐阜城」の雲海・・・雲海が岐阜・長良川をすっぽりと包む。

岐阜城からの眺め。雲海が消えると眼下には岐阜・長良川と、ところどころに小高い山のある町が広がり、時々ツチノコを見たことがあるという人が現れます。(小生もその一人。当人は真剣でも、ガキの頃の話なので錯覚かも(笑)・・・)岐阜駅は長良橋(岐阜市湊町)の手前側になります。橋を渡り向こう岸を右折した河岸に鵜飼の乗船場があります。

見上げると金華山の右上に岐阜城を望め、川に面して左側は温泉旅館やホテルが軒を並べ(対岸にも温泉旅館はある)、前はプロムナードになり河岸を散策できます。納涼鵜飼日として夏休みの期間を中心とした土曜日は、鵜飼が2回行われます。出番を待つ鵜舟・・・

鵜飼の様子を屋形船からながめる。

最後に行われる、鵜匠が全員集合しての総絡みは見事ですよ‼
絶対見逃せないクライマックス~~~


鵜飼のあらまし

鵜飼とは、鵜を巧みに操って川にいる魚を獲る漁法のことです。 日本での鵜飼の起源は、稲作とともに中国から伝承したとする説、日本と中国で別個に発生したとする説があり、定かではありません。


各地の古墳から鵜飼を表現しているとみられる埴輪が出土しているため、少なくとも古墳時代には鵜飼が行われていた可能性があります。文献では、7世紀初めに中国で成立した『隋書』「東夷伝倭国条」や、8世紀に日本国内で成立した『古事記』『日本書紀』などに、鵜飼に関する記述が見られます。


長良川鵜飼のはじまり

美濃国(現在の岐阜県)では、7世紀頃から鵜飼が行われていたと言われています。正倉院に納められている文書の内、美濃国と伝えられる702(大宝2)年の戸籍に、「鵜養部目都良売(うかいべのめづらめ)」という記述があります。この人物は、鵜飼を生業としていた集団の出身と推定されており、長良川鵜飼が1300年以上の歴史を持つとする由来となっています。


室町時代になると、将軍足利義教が墨股川(長良川)で鵜飼を観覧したという記録や、前関白太政大臣の一条兼良が現在の岐阜市鏡島の江口付近で鵜飼を観覧したという記録が見られます。

岐阜・長良川では夏の夜に薪能がおこなわれます。


信長公の愛した鵜飼

鵜飼を「見せる(=魅せる)」ことでおもてなしの手法として最初に取り入れたのが、織田信長です。1568(永禄11)年6月上旬、武田信玄の使者である秋山伯耆守(ほうきのかみ)が、信長の嫡男・信忠と武田信玄の娘・松姫との婚約に伴い、祝儀の進物を届けに岐阜の信長のもとを訪ねました。岐阜来訪から三日目、信長は秋山伯耆守を鵜飼観覧に招待しました。


この時、信長は鵜匠を集めて鵜飼を見せるように命じています。また、秋山伯耆守の乗る船を信長が乗る船と同様にしつらえたり、鵜飼観覧後も、捕れた鮎を信長自ら見て、甲府へ届けさせる鮎を選んだりするなど、信長流のおもてなしが最大限に発揮されていました。


将軍家の保護を受けた鵜飼

1615(元和元)年、大坂夏の陣からの帰りに岐阜に滞在した徳川家康・秀忠父子が鵜飼を観覧したと伝えられています。その際食した鮎鮨を気に入ったのでしょうか、同年、将軍家への鮎鮨献上が始まりました。同時に、鵜匠には川の自由な航行や、冬に鵜の餌を求めて餌飼(えがい)をすることが認められるなど、さまざまな特権が与えられました。 1646(正保3)年、初代尾張藩主徳川義直の鵜飼上覧を皮切りに、歴代尾張藩主による長良川鵜飼の上覧が慣例とされてきました。
また、1688(貞享5)年6月、松尾芭蕉は岐阜を訪れ、弟子とともに鵜飼を観覧しました。
その時に詠んだのが


「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな」

今上徳仁天皇陛下(当時皇太子殿下)にご説明する鵜匠。

皇室専用の「御猟場(ごりょうば)」


天皇家の鵜飼

1878(明治11)年、明治天皇の岐阜巡幸中に随行した岩倉具視らが鵜飼を観覧し、天皇に鮎が献上されました。 このころから、岐阜県は宮内省(現在の宮内庁)の管轄の中でその庇護を得ようと考え、宮内省に対して、皇室専用の「御猟場(ごりょうば)」と、管理官の「監守」、御猟場で漁をする公式な役職としての「鵜匠」の設置を願い出ました。その結果、宮内省は1890(明治23)年、長良川流域の3か所を御猟場(現在の御料場)と定め、通年の禁漁区としました。同時に、鵜匠は宮内省主猟寮に所属し、ようやく安定した地位を得ることができました。

観覧船造船所では腐りに強い高野槙(槙)を使って木船が造られています。鵜匠もそうですが、木船造りの匠(船大工)においても後継者を如何に育てるかが問題となってきそうですね。


世界に誇る長良川鵜飼へ

1922(大正11)年、イギリスのエドワード皇太子が長良川鵜飼を観覧しました。その他にも、国内外の賓客が多数、長良川鵜飼を観覧しています。世界の喜劇王チャールズ・チャップリンは、1936(昭和11)年と1961(昭和36)年の2回長良川鵜飼を観覧しており、「ワンダフル!」を連呼し、鵜匠を「アーティスト」と呼んだとも伝えられています。 現在長良川鵜飼は、毎年10万人を超える観光客が鵜飼観覧を楽しんでいます。昭和40年代には、30万人を超える観覧者数を記録したこともあります。 このかけがえのない日本の宝を世界の宝に、そして未来へと継承していくために、岐阜市は長良川鵜飼のユネスコ無形文化遺産登録を目指しています。


開催期間

5月11日〜10月15日 毎日開催。【鵜飼休み(1日間)と増水時などの中止日は除く】

ご予約・お問い合わせ

岐阜市鵜飼観覧船事務所 〒500-8009 岐阜市湊町1-2 TEL 058-262-0104


長良川鵜飼周辺情報

岐阜提灯が涼やかな千本格子の町並み「川原町」

川原町(湊町・玉井町・元浜町)の由来

斎藤道三・織田信長のころ(16世紀中頃)から、この辺りは中川原(明治時代には富茂登村)と呼ばれ、市場が開かれ、商業の拠点として繁栄していたようです。


道三は城下町をつくるにあたり、ここから上にかけての場所に川湊を設け、長良川の上流域で豊富に産する美濃紙・木材・茶などや当時のブランド品であった関の刃物を、ここを中継地にして全国各地に売りさばいたとも考えることができます。

匠の技術が活きている、町内を火災から守る「屋根神様」


江戸時代になると、尾張藩がここを治め、長良川役所が置かれました。ここを下る荷船から船役銀(通行税)を徴収しました。荷の種類は竹皮・酒・灰・炭・紙・木・ 茶・米など多様でした。それらを取り扱う紙問屋・材木問屋などが軒を連ねていました。今でも当時の商家を偲ばせる格子戸づくりがのこっています。軒屋根に設けられている屋根神様は町内を火災から守る秋葉神社です。


珍しいところでは、明治のころの古い銀行の建物もあります。また、道三の子斎藤義龍が建立した禅宗寺院の伝燈護国寺跡には、庚申堂が建てられています。昔の面影がただようこの地域の散策は、鵜飼情緒をさらに高めてくれます。


平成20年8月には、岐阜県が推進する岐阜の宝もの認定プロジェクトで【明日の宝もの】に認定されました。


交通アクセス

バ  ス:JR岐阜駅12番・13番N系統、11番市内ループ左まわり
「長良橋」または「岐阜公園歴史博物館前」バス停下車

タクシー:JR岐阜駅から約10分

マイカー:岐阜市営駐車場(159台)、第 2 駐車場(36台)(1回300円、1時間以内無料)


編集後記

真夏の夜(7月末~8月初め)には岐阜・長良川を舞台に、中日新聞社と岐阜新聞社の競演による全国選抜大花火大会や全国大花火大会が行われ岐阜県下は勿論のこと愛知県、滋賀県、三重県や他府県からも見学者があり河原は、人、人、人で身動きがとれなくなる程です。川面に映る大輪の花火や最後に行う仕掛け花火は、今でも忘れがたい故郷(フォロワー様には彼奴にはいったい故郷が幾つあるんだ〜?と思われそうですね…でもホント。いろいろな土地でお世話になりました。全てに宝物のような思い出や、苦い経験があり、故郷は幾つあってもよいものです。)


そうそう、「郡上のナァ~八幡出てゆく時は、雨も降らぬに袖しぼる」 の歌詞で知られる郡上おどりは、7月中旬から9月上旬にかけて33夜にわたって踊られます。 日本一のロングランの盆おどりで、郡上八幡の夏はおどりとともに始まり、おどりとともに終わるといえます。

是非、時を忘れて舞い踊って見ませんか?お待ちしておりま〜す‼


長良川鵜飼について、さらに詳しくお知りになられたい方は下記リンクをご覧ください。


ZIPANG-2 TOKIO 2020「信長公のおもてなし 清流長良川鵜飼 1300年以上の歴史と伝統 今年も開幕しました!~ 岐阜 ~」



鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使



協力(順不同・敬称略)

岐阜市鵜飼観覧船事務所 〒500-8009 岐阜市湊町1-2 TEL 058-262-0104

公益財団法人 岐阜観光コンベンション協会
〒500-8833岐阜市神田町1丁目8番地の5協和興業ビル6階 TEL:058-266-5588



※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。



 

ZIPANG-3 TOKIO 2020

2020年東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、神社仏閣、祭礼、伝統芸能、風習、匠の技の美、世界遺産、日本遺産、国宝等サイトを通じて平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです。

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