はじめに 記事をお届けするに当たり、先の北海道における地震災害、関西地方ならびに中国四国・九州地方における大雨・地震災害で未だ行方不明、並びに亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
明日香村
飛鳥について
明日香村さくらの苑の石舞台「飛鳥の色は日本の色…さくら色か…」
明日香村 甘樫丘展望台より「飛鳥の色は大地の色か…」
明日香村 細川の棚田「飛鳥の色は陽の光の色か…」
明日香村 藤の花「飛鳥の色は高貴な色か…」
明日香村 稲「飛鳥の色は実りの色か…」
明日香村 飛鳥川「飛鳥の色は水の色か…」
明日香村 棚田と集落「飛鳥の色は空(の)気の色か…」
明日香村 願い「飛鳥の色は祈りの色か…」
明日香村 東に青龍、南に朱雀、西に白虎、北に玄武「飛鳥の色は四神の色か…」
飛鳥地域とは
"あすか"という地名のいわれについては、古墳時代から我が国に移住した、たくさんの渡来人たちが、さすらいの果てに得た安住の地であるという意味で「安宿(あすか)」と名づけたのが転じたともいわれ、さらにその枕詞に使つかわれていた「飛鳥(とぶとり)」をも"あすか"と読ませることになったという説が立たてられています。
地名をもって時代名としているのは、日本史上これが初めてのことです。 飛鳥地域は、現在の奈良県高市郡明日香村周辺の地域を指します。また、大阪羽曳野(はびきの)市飛鳥周辺が「近つ飛鳥」と言われているのに対し、明日香村周辺は「遠つ飛鳥」と言われています。
これは「古事記」の記載の中なかで、履中天皇(りちゅうてんのう)の同母弟(後のちの反正天皇(はんぜいてんのう)が難波から大和の石上神宮(いそのかみ)に参拝する途中2泊しその地を名付けるのに、近い方を「近つ飛鳥」、奈良県の遠い方を「遠つ飛鳥」と示したことによります。
対馬「梅林寺」
飛鳥時代の年表
538年百済から仏教伝わる
587年蘇我馬子、物部氏を滅ぼす
592年推古天皇即位し、豊浦宮を造営する
593 年聖徳太子、推古天皇の摂政になる
603 年官位十二階の制度が作られる。推古天皇、小墾田宮に遷る
604 年十七条憲法が制定される
607 年遣隋使(小野妹子おののいもこ)派遣
622 年聖徳太子、没する
630 年第一回遣唐使、派遣
641 年山田寺の造営はじまる
645 年蘇我本宗家滅亡(大化改新)
652 年班田収授法が制定される
660 年中大兄皇子、漏刻(水時計)をつくる(水落遺跡)
667 年都を近江大津へ遷す
668 年天智天皇が即位する
672 年壬申の乱で大海人皇子(おおあまのおうじ)が勝利する
673 年天武天皇が即位する
683 年銅銭(富本銭ふほんせん)が鋳造される
694 年都を藤原京へ遷す 701 年大宝律令が制定される
710 年都を平城京に遷す
世界遺産 法相宗大本山 薬師寺
薬師寺の伽藍、仏像
日本で一番最初に二基の塔を建てた薬師寺の独特なお堂の並び方は「薬師寺式伽藍配置」と呼ばれています。国宝・重要文化財に指定された多くの建物と仏像がお祀りされています。
天皇系図(宮内庁)
即位後朝見の儀に臨まれる天皇皇后両陛下(令和元年5月1日)
飛鳥時代とは
飛鳥時代とは、年代的にいえば、推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)に即位した6世紀の終りから、元明天皇が和銅3年(710年)に奈良平城京に遷都するまでの約100年間を指すことになっています。
この間の歴代天皇は一代ごとに都を遷していますが、推古天皇の豊浦宮(とゆらのみや)と小墾田宮(おはりだのみや)を始めとしていずれの宮も飛鳥地域内にあり、この間に飛鳥を離れたのはわずか3人だけでした。
その3人、孝徳天皇の難波宮と天智、弘文天皇の近江大津宮の時代は、わずか15年に過ぎませんでしたし、その間も留守官(るすのつかさ)を任命し維持されており、飛鳥は捨てられていたわけではありませんでした。 それ故この時代の政治・文化の中心は飛鳥にあったといっても間違いではなく、総称として"飛鳥時代"と呼ばれています。
飛鳥時代を一口にいうと中国・朝鮮からの仏教伝来に伴ない、古墳時代から脱皮して新しい文化を発展させた時代であり、政治、経済、社会ともに大変革が試みられ、大和政権が豪族の連合政権から天皇制律令国家へ飛躍したことで、日本国誕生の時代ということができます。
飛鳥時代の歴史とは
飛鳥時代前の古墳時代は、王権をめぐっての争いが激しく、それに絡み豪族の間でも利益の対立が深刻で争いが絶えませんでした。とくに飛鳥時代に入はいる直前に伝来した仏教をめぐる蘇我氏と物部氏の二大豪族間による争いは激しいものでしたが、蘇我氏の勝利をもって豪族対立の時代はようやく終りを告げました。
そして聖徳太子の登場で秩序ある国家への道が開かれ、天皇中心の律令国家が築かれていくことになります。聖徳太子は飛鳥時代の始まりとなった推古天皇の摂政として政治の全をゆだねられていましたが、その政策は仏教を基調とするとともに、冠位を定め、憲法を制定し、皇室の権威を高めるなど、天皇中心の統一国家を樹立することにありました。
また、壮大な寺院を建立し仏教の興隆に努めた結果、この時代の建築や彫刻技術は飛躍的に進歩し、輝くばかりの飛鳥文化を作り出すことになりました。
太子の没後、政治の実権はまたもや蘇我氏に戻り、太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう〉が自殺に追いやられたりしましたが、結局中大兄皇子(後の天智天皇)によって蘇我入鹿(そがのいるか)は倒され、豪族の政権介入にピリオドが打たれました。この事件が有名な乙巳(いっし)の変(大化改新)です。
この後、中大兄皇子が天皇に即位しましたが、皇位継承をめぐる壬申(じんしん)の乱がおこり、天武天皇が飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)で即位することになりました。以降、持統天皇、文武天皇へと続きますが、大宝律令の制定など、聖徳太子の政治理念は受け継がれ、確立していきました。
明日香村 飛鳥寺「飛鳥大仏」
明日香村 飛鳥寺 飛鳥時代の様子を再現「劇団時空」演出
飛鳥の文化とは
飛鳥時代は、文化面では、今日の文化の基礎が花開いた時代であるということができます。この時代に建立された寺院や仏像彫刻は「飛鳥様式」とも呼ばれ、続く白鳳・天平様式へと推移していきます。
現在飛鳥文化をそのまま伝つたえるものは殆ど残っていませんが、山田寺回廊や飛鳥大仏のほか、斑鳩(いかるが)の法隆寺及びその周辺にその面影を見みることができます。
一方、日本の文学の原点といわれる万葉集には、飛鳥時代の人々の歌が多数収録されています。これらの歌には当時の人々の大らかな生活ぶりや感情がよく表されていて、文学作品としても非常にすぐれたものがあり、飛鳥文化の水準の高さを証明しています。
明日香法(あすかほう)について
明日香法:
正しくは「明日香村における歴史的風土の保全及び生活環境の整備等に関する特別措置法」
明日香法ができた経緯
1970(昭和45)年、佐藤首相が官房長官・運輸相・通産相・総理府長官などとともに、明日香村の視察にこられました。そのきっかけをつくったのが、明日香村に魅みせられ、この地に移り住んだ漢方医、御井敬三さんでした。
御井さんは、住宅開発の波が橿原(かしはら)の方から甘樫丘(あまかしのおか)のすぐ西側まで迫まってきている中で明日香村の昔ながらの風景が何なんとかこのままの美しい姿で残ってほしいと考えました。
御井さんは、このような明日香村に対する熱い思いを、佐藤首相に声のメッセージで送りました。そのことがきっかけになって佐藤首相が来村され、また、明日香村を愛する人たちの声に支えられて、新聞、テレビをはじめとするマスコミが一斉に明日香村の古都保存のキャンペーンへと繰り広げるに至りました。
又、国会議員による「飛鳥古京を守る議員連盟」が発足し活発な活動が始まり、12月には、「飛鳥地方における歴史的風土および文化財の保存等に関する方策について」閣議決定され、道路の整備、国立飛鳥資料館の建設・飛鳥国営公園の設置・飛鳥保存財団の設立・研修宿泊施設の建設、特別保存地区の指定、遺跡保存と発掘調査を進めることが決められました。
この閣議決定が現在の明日香法の出発点となっています。
学者でも明日香村民でもない一人の民間人が、ときの首相を動かしました。1970年6月28日甘樫丘にやってきた佐藤首相は、「直接には、飛鳥保存が国民的課題となったからだが、御井さんのテープを聞いて、ぜひ明日香をおとずれたいと思った」と語りました。
※御井氏と同郷の松下幸之助氏の陰のご尽力を忘れてはならない・・・
御井氏と松下氏の出会いは、時々御井氏の鍼灸院に松下氏が通院されておられたとのことで、松下氏に相談されたのがきっかけだそうです。
人と人の出会いは大切にしたいものです・・・
松下幸之助 一日一話
5月17日 悩んでも悩まない
われわれ人間は、たえずといっていいほど悩みにつきまとわれる。しかし私は、悩みがあるということは、人間にとって大事なことではないかと考えている。なぜかというと、常に何か気にかかることがあれば、それがあるために大きなあやまちがなくなる。心がいつも注意深く活動しているからである。
だから、悩みを持つことは、むしろプラスにつながる場合が多い。したがって悩みに負けてしまわず、自分なりの新しい見方、解釈を見出して、その悩みを乗り越えていくことが大切である。悩んでも悩まない、そういうように感じることができれば、人生は決して心配することはない。
※ PHP研究所編
明日香法の内容について
明日香村の遺産や文化財を十分に保護すること、自然の中に歴史と文化を感じさせる景観をこわさないように維持すること、そしてまた、住民の生活の安定をはかることを目的として、1980(昭和55)年5月、「明日香法」が施行されました。 この明日香法の内容は、大きく分けると次の2つから構成されています。
歴史的風土の維持・保存を目的としたもの
明日香村全体を第1種地区と第2種地区に分わけています。
■第1種地区…石舞台・高松塚・岡寺・伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきのみやあと)・甘樫丘(あまかしのおか)など、歴史的風土の維持・保存を必要とする地域であるため、現状の変更をきびしく抑制している地域をいいます。
■第2種地区…第1種地区以外の地域のなかで、著しい現状の変化については、抑制されている地域をいいます。
住民の生活安定を目的としたもの
1.明日香村歴史的風土の維持・保存と同時に、明日香村の生活環境を整え、さらに明日香村を発展させていくことを目的としています。
道路や下水道、公園や教育施設、農業用道路などの整備を計画的に進めていきます。
2.明日香村整備基金を設けて、歴史的風土の保存をはかるために行われる事業をいいます。
事業の内容は、次のようなものです。
■村内建物の屋根や壁の色には規制があるため、その費用の一部を助成する事業
■史跡の周辺のごみかごの設置などをはじめとする環境美化にたいする補助事業
■農業用道路や水路の整備事業各大字の集会所の設置
■農業や林業のにない手てを育成する事業
編集後記
先般、我が国が世界文化遺産へ推薦を行っている「百舌鳥・古市古墳群」について,世界遺産委員会の諮問機関であるイコモスによる評価結果がユネスコ世界遺産センターから「百舌鳥・古市古墳群」については,「記載」が適当との勧告がなされたと速報いたしました。
今回のことを契機に、古墳見学のブーム が再燃するのではと、期待する向きもありますが、確かに中高年以上の方たちは古の遺跡等を見学するだけで満足されるかもしれませんが、特に若い方たちはそれだけでは興味を引かないだろうし又、物足らないと感じると思う。それぞれの施設が趣向を凝らし(古墳以外の観光施設では、既に実施されている所も多い)誰もが注目するような参加型のアクティブな体験イベント等を企画することが若い層の集客に繋がるのではないかと考えます。
現在、明日香村では、年間通して様々な伝統行事やイベントが開催されています。 また、季節によって美しい花々の風景に出会うこともできます。
一例として
8月 中旬 明日香ふるさと夏祭りお盆に「国営飛鳥歴史公園石舞台地区」で開催。
9月 9月中秋の名月の日万葉の明日香に月を観る会万葉の語り部や琴の演奏を月あかりの下で。
9月中旬または下旬飛鳥光の回廊数々の歴史的遺構が晩夏の夜に輝く。(明日香村内)
9月中旬または下旬彼岸花祭棚田が美しい稲渕では、案山子コンテストも。(稲渕地区)
10月中旬橘寺・聖徳太子報恩法要季節の食材をお供えし、法要を行う太子会式。(橘寺)
10月中旬古墳祭村内の古墳墓慰霊法要が行われる。(石舞台古墳周辺)
10月中旬古都飛鳥文化祭(予定)明日香村の芸能文化が一同に。(明日香村内)
11月下旬明日香村農林商工祭産品のPRと農林商工業振興を目的に開催。
(国営飛鳥歴史公園石舞台地区)
をはじめとして更には、明日香村内の各施設お店においてイベントが実施されます。
花の見ごろ
3月中旬~4月中旬菜の花
3月下旬~4月上旬桜
4月上旬レンゲ
4月中旬~5月初旬石楠花
8月中旬~9月下旬ナンバンギセル
9月上旬~10月上旬ハギ
9月中旬~9月下旬彼岸花
9月下旬~10月下旬コスモス
お問い合わせは
一般社団法人 飛鳥観光協会〒634-0138 奈良県高市郡明日香村越6-3飛鳥びとの館
TEL:0744-54-3240
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
世界遺産 法相宗大本山 薬師寺
〒630-8563 奈良県奈良市西ノ京町457 TEL 0742-33-6001
一般社団法人 対馬観光物産協会 〒817-0021 長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地1
観光情報館ふれあい処つしまTEL 0920-52-1566
パナソニック株式会社
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宮内庁 〒100-8111 東京都千代田区千代田1-1 電話:03-3213-1111(代表)
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