はじめに 記事をお届けするに当たり、この度の九州豪雨と山形沖の地震災害、並びに近年の北海道・関西地方、並びに中国四国・九州地方他、多くの大雨・地震災害で未だ行方不明、並びに亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
花の窟神社例大祭 御縄掛け神事 毎年 御縄が足らなくなる程の大勢の参加者で賑わいます
錦の御旗に見立てた御縄。全て住民の皆さんで作ったものです
神々に舞を奉納します
花の窟は、神々の母である伊弉冊尊(イザナミノミコト)が火神・軻遇突智尊(カグツチノミコト)を産み、灼かれて亡くなった後に葬られた御陵です。平成16年7月に花の窟を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されました。
花窟神社(花の窟神社)は日本書紀にも記されている日本最古の神社といわれており、古来からの聖地として今に続く信仰はあつく、全国から多くの参拝者がご参集されます。
花の窟では年2回、例大祭を行います。神々に舞を奉納し、日本一長いともいわれ大綱の「御縄掛け神事」※は、太古の昔から行われており「三重県無形文化指定」されています。
※後述の「御縄掛け神事」の項目にて詳細をご参照下さい。
神前にて花と舞の奉納
花の窟に花舞の奉納
花の窟に花舞の奉納
花の窟に花舞の奉納
花の窟に花舞の奉納(数多くの舞姿より抜粋)
由緒書
日本書紀からみる花の窟の由緒
日本書記に「 一書曰伊弉冉尊火神(いざなみのみこと)を生み給う時に灼(や)かれて神退去(さり) ましぬ 故(か)れ紀伊国 熊野の有馬村に葬(かく)しまつる 土俗(くにびと)此神の魂(みたま)を祭るには 花の時に花を以って祭る 又鼓 吹幡旗(つづみふえはた)を用て歌い舞いて祭る」とあり、即ち当神社にして、其の由来するところ最も古く、花窟の名は増基法師が花を以て祭るより起これる名であります。
花窟神社は古来社殿なく、石巌壁立高さ45米。南に面し其の正面に壇を作り、玉垣で周う拝所を設く。此の窟の南に岩あり、軻遇突智神の神霊を祀る。此の神、伊弉冉尊の御子なれば王子の窟という旧藩主に於いて、此の霊地保護のため寛文9年9月、及び元禄8年11月四至限界御定書を下付し、且つ高札を建て殺生禁断を布令せられました。
又、昭和23年4月10日天皇陛下(現:上皇)が皇太子殿下の当時、熊野地方御見学の途次御立寄りあらせられました。
この窟は伊弉冊尊の御葬所であり、季節の花を供え飾って尊を祀ったが、故に花窟との社号が付けられたと考えられます。 古来、花窟神社には神殿がなく、熊野灘に面した巨巌が伊弉冊尊の御神体とし、その下に玉砂利を敷きつめた祭場そして、王子の岩と呼ばれる高さ12メートル程の岩があり、この神が伊弉冊尊の御子であることから王子の窟の名の由来とされています。
花窟神社及熊野三山を詠める歌
御祭神
花の窟と日本書紀
天地開闢において神世七代の最後に伊弉諾尊・伊弉冊尊ともに生まれました。国産み・神産みにおいて伊弉諾尊との間に日本国土を形づくる多数の子を設けます。その中には淡路島隠岐島からはじめやがて日本列島を生み、更に山・海など森羅万象の神々を生んだのです。
伊弉冊尊の神逝り後、妻に逢いたくて黄泉国まで行った伊弉諾尊に死後の姿を見られたことを恥じて、逃げる伊弉冊尊を追いかけるが、黄泉比良坂(現;島根県東出雲町)で伊弉冊尊が道を塞ぎ、伊弉諾尊と離縁します。その後、伊弉冊尊は黄泉国の主宰神となりました。
日本書紀の一書では三重県熊野市有馬の花窟神社に葬られたと記されています。
伊弉冊尊(イザナミノミコト)
日本書紀では伊弉冉尊(イザナミノミコト)と記されています。
(『古事記』では伊邪那美命)
日本神話の大地母神であり、人間の寿命を司る黄泉津大神であります。同時期に生まれた国之常立神、豊雲野神、宇比地邇神、須比智邇神、角杙神、活杙神、意富斗能地神、大斗乃弁神、淤母陀琉神、阿夜詞志古泥神、伊邪那岐命と並んで「神世七代」と称されています。
『記紀神話』では、伊弉諾尊(イザナギノミコト)と共に天津神に国造りを命じられ、大八島国(日本の国土)と大事忍男神ら35の神々を生むが、軻遇突智尊(カグツチノミコト)を生むときに火傷を負い、それがもとで神逝ることとなります。
伊奘冉尊、火神を生む時に、灼かれて神退去りましぬ。故、紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗(くにひと)、此の神の魂を祭るには、花の時には亦花を以て祭る。又鼓吹幡旗を用て、歌ひ舞ひて祭る。
軻遇突智尊(カグツチノミコト)
日本書記では軻遇突智(カグツチ)、火産霊(ホムスビ)と記されています。
伊弉冊尊が火の神である軻遇突智尊に焼かれ、臥せりながらも土神(ツチノカミ)埴山姫(ハニヤマビメ)と水神(ミヅノカミ)罔象女(ミツハノメ)を生んだ。軻遇突智尊は埴山姫を娶って、稚産霊(ワクムスビ)を生んだ。この神の頭の上に、蚕と桑とが生じた。また臍の中に五穀が生じた。罔象、これをみつはと読む。
伊奘諾尊、恨みて曰はく、「唯、一児(このひとつぎ)を以て、我が愛しき妹に替へつるかな」とのたまひて、則ち頭辺に匍匐ひ、脚辺に匍匐ひて、哭き泣ち流涕びたまふ。其の涙墜ちて神と為る。是即ち畝丘の樹下に所居す神なり。啼沢女命と号く。遂に所帯せる十握劍(とつかのつるぎ)を抜きて、軻遇突智を斬りて三段に為す。此客神と化成る。
例大祭
御縄掛け神事
紀伊続風土記に花窟(東西六十五年間南北百十間)禁殺生伊弉冊尊陵拝所鳥居村 の北一町ばかり往還の側海辺にあり。石巖壁立高二十七間南に面へり。其正 面に方三間許の壇を作り、玉垣を周らし拝所を設く。日本書紀の一書に云々 (文略)とある是なり(古事記出雲国と伯耆国との境なる比婆山葬るとあるは 誤伝なり)花窟の名、増基法師が紀行「庵主」に始めて見えたり花を似て祭より起れる名なり。
下より十間ばかり上に方五尺ばかりの洞あり。村人「御か らうど」といふ。寛文記に三臓法師大般若経を籠めし所といふ。 此事既に増基が「庵主」にも見えて弥陀仏の出現の世にとり出す経なりしよし いへり。是より花窟を般若の窟と称す。皆浮屠氏の妄説なり。
祭日毎年二月二日、十月二日両度なり。寛文記に昔の祭日には紅の縄、錦の幡、金銀にて花を作り散らし、火の祭と云ひしとあり。
村人いふ錦の幡は毎年朝廷より献じ給ひしに何れの年にか熊野川洪水にて其幡を積みたる御舟破れしかば祭日に至り俄にせんすべなく縄にて幡の形を作りしとぞ。其後錦の旗の事絶えて縄を用ふ(今花井壮熊野川相須村の辺に絹巻石と云ふあり破船の時錦の幡の流れて其石にかゝりし故にその名ありといふ)今村人の用ふる所は縄を編みて幡三流の形を造り幡の下に種々の花を括り又扇を結びつけて長き縄を以て窟の上より前なる松の樹に高く掛け三流の旗、窟の前に翻る。歌舞はなけれども「以花祭又用鼓吹幡旗祭」といふ故実を存する事めづらしき祭事といふべし。
夫木抄光俊朝臣花祭の詠及久安百首の歌に錦の幡などの事は見えざれども花祭の名古くより世に聞えたる事知るべし。又祭日ならでも、村人等時に花を奉りて祈念するといへり(下略)
「庵主」に卒堵婆の苔に埋もれたるなどありとはれども、今はさる穢れたるものなし。此窟の側七八間を隔て対せる岩あり、高さ四間半是を王子窟といふ。「庵主」に王子の岩屋あり、ただ松のかぎりある山なりとある、是なり。軻遇突智の神霊を祀る。此神伊弉冊尊の御子なれば、王子の窟の名ある。一名聖(ひじり)の窟ともいう「此窟にも拝所ありて玉垣を周らす」とあり。按ずるに伊弉冊尊の御陵は紀記其所載を異にして、今其正否を論断し難しと雖、花窟に於て祖神の祭祀を行ひ来れる事実は極めて古く、遠く、然も其遺風の今日に伝はれるは最も尊重に値すと謂ふべし。花窟は古来社殿の建立なく神社と称して奉祀するに至れるは後世の事と思科せられる。
旧藩主の於ては此の霊地を保護の為に寛文九年九月および元禄八年十一月の四至限界御定書を下附し且つ高礼を建て殺生禁断を令せられたり。
例大祭(三重県無形文化指定 御縄掛け神事)
御縄掛け神事は、有馬の氏子が中心となり、およそ10メ-トルの三旒の幡形、下部に種々の季節の花々や扇子等を結びつけたものを、日本一長いともいわれる約170メートルの大綱に吊し、大綱の一端を岩窟上45メートル程の高さの御神体に、もう一端を境内南隅の松の御神木にわたす神事であります。
御縄綯え作業
昨年は、10月2日に行われる御綱掛け神事に用いられる御綱の綯え作業が9月25日に花の窟にて行われました。この日は,地元の方々が集まり、午前8時から午後5時半まで作業が行われました。
例大祭日時(三重県無形文化指定 御縄掛け神事)
花の窟神社春季大祭
毎年2月2日
花の窟神社秋季大祭(次回)
毎年10月2日
宝物
花の窟図 版木 菱川廣隆原画
三重・ 花窟神社は熊野古道(伊勢路)沿いにあり、御神は「花の窟」とよれる巨岩です。
この版木の図は、お綱掛けの神事により、御神体に綱が掛けられた状態を描いています。「紀伊山地の霊場と参詣道」世界遺産登録記念として、吉野・熊野・高野の名宝と共に特別展示された宝物であります。
境内
花窟神社境内のご案内
花の窟の境内の配置です。
花の岩屋のご紹介
付記
花の岩屋のご紹介
花の窟神社の前には、「花の岩屋」という御茶屋さんがあります。ここでは、地元の方々が花窟神社ご参拝客の為に、お茶をふるまって下います。あたかも故郷気分に浸れるホッとなるひとときです。
勿論、此処では花の窟神社にちなんだお土産物も色々並んでいますよ。
是非お立ち寄り下さい。
お薦めです!
営業日:不定期(主に土日・祭事に営業中)
営業場所:花の窟神社南 →境内のご案内をご覧下さい
運営:有馬を創造する会
茶屋 花の岩屋のおすすめ
花の岩屋おすすめ商品『いざなみまい』¥400 (三重県産古代米100%です。)
古代米は古代から作られ食べられているモチ米です。ビタミンE、ミネラル、繊維質が豊富に含まれています。この「黒米」、収量がふつうのおコメの3分の1ほどしかなく、脱穀にも手間がかかります。 黒米は、ふつうのお米に、ほんの少量混ぜて炊くと、ピンク色に炊き上がり、おにぎりにして食べても、ちょっとねばっとしていて美味しいです。炊飯に黒米を加えれば。必要な栄養をバランスよく取り込むことができます。
花窟神社参拝と周辺の見どころ交通のご案内
花窟神社と熊野
花窟神社がある熊野市は、三重県南部に位置し、北西部は標高500メートルを超える山々が連なり、奈良県および尾鷲市に接しています。
東南部は熊野灘に面して変化に富んだ景観に恵まれ、南西部は和歌山県、奈良県と接しています。平成16年7月7日に熊野市の歴史文化遺産である松本峠や大吹峠などの熊野古道が「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されました。熊野古道とは、三重、奈良、和歌山の三県にまたがり、伊勢や大阪・京都と紀伊半島南部にある熊野の地とを結ぶ道です。古くは「くまのみち」、「熊野街道」とも呼ばれ、「熊野参詣道」として国の史跡に指定されています。
「紀伊山地の霊場と参詣道」は、古代以来、自然崇拝に根ざした神道、中国から伝来し我が国で独自の展開を見せた仏教、その両者が結びついた修験道など多様な信仰の形態を育んだ神仏の霊場であり、熊野信仰の中心地である「熊野三山」、修験道の拠点である「吉野・大峯」、真言密教の根本道場である「高野山」の3つの霊場と、これらを結ぶ「熊野参詣道(熊野古道)」・「大峯奥駈道」・「高野山町石道」からなっており、三重県・奈良県・和歌山県の合計29市町村にわたる広範囲にわたっている遺産は日本で唯一、世界でも比類のない資産として価値が高いといわれております。
花窟神社周辺の見どころ
鬼ヶ城
熊野酸性岩が隆起や海面の上昇・下降に伴う海蝕・風蝕によって形成された奇岩が並ぶ場所です。毎年8月に行われる、熊野大花火大会の「鬼ケ城大仕掛け」でも有名。
(三重県熊野市木本町)
獅子巖
獅子巖は熊野酸性岩の風蝕洞で、南側から見ると獅子の頭部に似た景観をみせています。
高さ25mの奇岩。国の名勝・天然記念物。
(熊野市井戸町 JR熊野市駅から徒歩7分)
七里御浜
熊野市から鵜殿村に至る約22Km続く日本で一番長い砂礫海岸。これまでに「日本の渚百選」や「21世紀に残したい自然百選」などにも選ばれた景勝地。
(三重県熊野市・御浜町・紀宝町)
産田神社(うぶたじんじゃ)
神社の名は伊弉冊尊がこの地で軻遇突智神を生んだとの伝説からつけられたといわれています。(三重県熊野市有馬町1814 JR熊野市駅から車で5分)
花窟神社 所在地
鎮座地 〒519-4325 三重県熊野市有馬町上地130
駐車場 あり(茶屋 花の岩屋横 )20台 無料
交通アクセス
花窟神社までの交通機関
名古屋方面からのアクセス
車ご利用の場合
名古屋ICから
東名阪~伊勢自動車道(勢和多気IC経由~大宮大台I.C)⇒国道42号線にて熊野市まで約3時間(約200km)
電車ご利用の場合
名古屋駅から
JR紀勢本線 特急「ワイドビュー南紀号」で熊野市駅まで約2時間50分
JR松阪駅から
JR紀勢本線特急ワイドビュー南紀で熊野市駅まで約1時間50分
熊野市駅から
三重交通バス 「熊野市駅前」停⇒「花の窟」停まで約5分
バスご利用の場合
名古屋駅から
名鉄バスセンターのりばより三重交通バスにて「熊野市駅前」停まで約4時間
大阪方面からのアクセス
車ご利用の場合
大阪から
西名阪自動車道(郡山IC)~橿原~国道169号~国道42号経由~熊野市まで約3時間30分(約180km)
白浜から
国道311号~168号経由- 新宮市街地から国道42号を北上(約130km)
電車ご利用の場合
JR新大阪駅から
特急「スーパーくろしお号」で新宮駅まで約3時間50分
近鉄 上本町から
近鉄阪伊乙特急で松阪まで1時間28分⇒JR特急南紀で熊野市駅まで約1時間49分
JR天王寺駅から
きのくに線特急オーシャンアローで新宮駅まで約3時間20分
JR京都駅から
きのくに線特急オーシャンアローで新宮駅まで約4時間10分
JR新宮駅から
普通列車で熊野市駅まで30分
JR熊野駅から
三重交通バス 「熊野市駅前」停⇒「花の窟」停まで約5分
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
花窟神社(花の窟神社)〒519-4325 三重県熊野市有馬町上地130 電話番号:0597-89-2881
熊野市観光協会 〒519-4324三重県熊野市井戸町653-12 電話/FAX:0597-89-0100
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