はじめに 記事をお届けするに当たり、この度の北海道における地震災害、関西地方ならびに中国四国・九州地方における大雨・地震災害で未だ行方不明、並びに亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
近江八幡市には古から今日に至るまで、毎年決まった時期に特定の人員で構成された「火まつり」が市内各地で開かれています。これを「近江八幡の火祭り」と称し、平成4年には国の無形民俗文化財に選択されるなど、学術や文化、歴史や観光面からも多くの注目を集めています。
火祭りの中で最も賑わいを見せる日牟禮(ひむれ)八幡宮での祭り(左義長まつり・八幡まつり)と篠田の花火をご紹介します。
織田信長も歌舞いて踊り出た!「左義長まつり」
左義長まつりは近江八幡に春を告げるお祭りで、織田信長も盛大に行い、自ら華美な衣装で踊り出たと伝えられています。
左義長の中心に据え付けられた「山車(だし)」はその時の干支にちなんだものを、黒豆、小豆、胡椒、昆布、するめ、鰹節等の食材として約2~3か月の期間を費やして地域の人々によって作り上げられています。
春の三大火祭り「左義長まつり」について
左義長の起源・いわれ
平安時代に宮中で、毬杖・毬打(ぎっちょう・ぎちょう)と呼ばれる道具を使用して行う打毬(だきゅう:注1)と言う正月のめでたい遊戯がありました。
左義長はこの打毬で破損した毬杖を、清涼殿(注2)の東庭で青竹を束ね立てたものに結び、さらに扇子や短冊などを吊るし、陰陽師(おんみょうじ)が謡いはやしながらこれを焼く行事が起源とされ、この毬杖を3つ結んだことから各書物には、三毬杖・三鞠打・三木張、散鬼打、などと記され、しだいに左義長と呼ばれるようになったと考えられます。
現在でも正月15日前後に、どんど焼、さいとやき、三九郎焼(さんくろうやき)、 ほちょじ、ほっけんぎょうなどの名称で、正月の松飾りや注連縄(しめなわ)を集めて焼く火祭りの行事として行われ、この火にあたると若返るとか、餅を焼いて食べると病気をしないなどと言われています。
全国的には1月に左義長を行っている地域が多く、近江八幡の左義長まつりも江戸時代には1月の14日・15日に執り行われていたようですが、明治時代に入ってからは、太陽暦の採用に伴い3月に変更され、昭和40年代からは3月14・15日に近い土日曜日に開催されるようになりました。
注意1
大陸伝来のもの。紅白の毬を先がヘラになった毬杖で掬って自分の組の毬門に早く投げ入れた方を勝ちとするポロに似たもの。
注意2
清涼殿(せいりょうでん):平安京内裏の殿舎の一つで天皇の常の居所。
近江八幡の左義長まつり
近江八幡の左義長は元来、安土城下で行われていたもので、城主であった織田信長自らも踊り出たと伝えられています。
織田信長亡き後、八幡城下に移住してきた人々は、既に4月に行われていた八幡まつりに参加を申し入れましたが、松明の奉火場所が無く、また新参とのことで断られたため、これに対して、安土で行われていた左義長まつりを始めたことが起源とされているとも伝えられています。
近年の左義長まつりには、旧城下町の各町から13基が奉納されていますが、過去には中止されたり縮小することもあったようです。八幡開町から江戸初期頃までの左義長に関しての資料はありませんが、八幡町史では、宝永2年(1705年)まで行われ、同3年以降、34年間休んだという記録があり、町中残らず参加、以後毎年開催されるようになったのが元文5年(1740年)と記されています。
他にも、寛延元年(1748年)朝鮮通信使来幡につき中止、安永8年(1779年)左義長29基が奉納、天保5年(1834年)米穀貴重のため禁酒にて行う、慶応4年(1868年)維新騒動のため休止、昭和3年御大典を祝い31基奉納 等々、左義長まつりも時代を反映していたことが分かります。
近江八幡の古い町並み。雪の中をゆく左義長(左義長は雨天決行)
左義長の制作
左義長は松明、ダシ、十二月(赤紙)の3つの部分を一本(基)にし、前後に棒を通し、つり縄で括り固め御輿のように担ぐように作り上げます(これ全体を左義長と呼びます)。前方となる正面に「だし」と呼ぶ作り物は意匠を凝らし、時間をかけ経費を惜しまず各町の誇りをかけて制作されます。
かつて「ダシ」は町の器用で作り物の得意な人によって、専門的に手がけられていましたが、現在は町内の人々の手作りによりその年の干支に因んだ物を主としテーマを決めて制作されます。ダシコンクールの優勝を目指して力が入ります。
干支の作り物を「むし」と呼び、背景は円形、方形、扇形など「台」と呼ぶ部分を作り取り付けます。この素材が、穀物「大豆、黒豆、小豆、胡麻等)や海産物(鰹節、昆布、するめ、干魚等)の食物を使って、その素材の色を活かして作り上げることが大きな特徴です。以前の左義長は今より高く大きかったのですが、街中に電線がひかれたこと、また担ぐ力の関係からも現在の大きさになったようです。
毎年、年が明けると本格的な準備に入り、制作の経費や作業も各町毎で協力しながら、年毎に新たな左義長を作る喜びを分かちあい、祭りの当日を迎えます。
参加者と変装の謎
左義長の担い手は踊子(おどりこ)と呼ばれ、その服装は、揃いの半纏を羽織る姿が一般的です。近年は少数になりつつありますが、女物の長襦袢を着用したり、化粧をするなど、変装した格好で左義長まつりへ参加するものも少なくはありませんでした。
これには、諸説ありますが、織田信長が自らの正体を隠すために派手な出で立ちで参加したとの話を、近世の人々が変装するものと解釈したのではないかと言われています。
左義長を担ぐ人々は口々に「チョウヤレ・チョウヤレ」と「マッセ・マッセ」と声を発しています。前者は「左義長さしあげ」後者は「左義長めしませ」からこのような掛け声になったものと思われます。
まつりのスケジュール
金曜の午後、日牟禮八幡宮にて行事順を決める「みくじ祭」があります。
土曜日は13時に左義長が日牟禮八幡宮へ勢揃いします(この時に山車コンクールの審査も行われます)。14時から渡御(旧町内巡行)が行われ、17時半頃からはダシコンクールの表彰式(日牟禮八幡宮 能舞台にて)が行われます。
日曜日には、午前中から各町の左義長が旧城下町を中心に自由に練り歩き、「組合せ」(左義長のけんか)が行われます。そして20時からみくじ祭での奉納順に従い左義長は順次奉火され(一番から五番までは一斉奉火)、最後の左義長が燃えるまで、祭は夜遅くまで続きます。
近江八幡の左義長まつりは、「天下の奇祭」とも呼ばれますが、他にも、この祭りが終わると本格的な春が訪れることから、「湖国に春を告げるお祭り」などと形容されます。京阪神や中京圏を中心に観光客並びにカメラマンが例年5万~7万人もの人々で賑わう滋賀を代表するお祭です。
まつり会場までの交通
左義長まつり 臨時駐車場(シャトルバス)のご案内
左義長まつり開催時は、市営観光駐車場も手狭なため、市内の混雑が大きな課題となっています。
毎年、まつり開催期間の両日、市民バスを活用した「パーク&バスライド」が実施されています。
期間
(初日)11時~19時
(二日目)11時~22時
運行間隔 約10分間隔で運行予定
行程
市役所前職員駐車場(旧市民病院跡)⇔市営小幡観光P
*シャトル運行となります。
バス
市民バス(赤コンバス)2台(12人乗り)が運行。
料金
駐車場代として1台300円(バス代は無料)。
*駐車のみの利用は無料
交通規制等により大変混雑し駐車場は不足しますので 公共交通機関の
ご利用が便利です。
近江八幡駅から日牟禮八幡宮まで、徒歩でご来場の方。
徒歩 約30分
近江八幡駅からバスでご来場の方。
JR近江八幡駅より近江鉄道バス「長命寺」行き、もしくは「野ヶ崎」行き。
「小幡町資料館前」下車。(1時間に2~3便運行)
JR近江八幡駅より左義長会場(小幡町資料館前)の間を
臨時バスが運行し増便されます。
お帰りは「JR近江八幡駅」行き近江鉄道バスにご乗車ください。
(1時間に2~3便運行)バスの最終便の時間は「当日用のチラシ」にて確認ください。
車・バス・タクシーでご来場の方
※日牟禮八幡宮周辺は交通規制されてますので、係員の指示に従ってご駐車ください。
●名神高速道「竜王」インターより15km
●市営小幡駐車場、多賀駐車場について多賀・小幡とも普通車・バス駐車可能です。
(駐車可能台数は両方で最大130台)
●タクシー
近江八幡駅北口よりご乗車ください。
(火祭り会場までは5~7分程度です)(近江八幡駅前にはタクシーは常駐しています)
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
協力(敬称略)
一般社団法人 近江八幡観光物産協会
〒523-0864 滋賀県近江八幡市為心町元9−1(白雲館内) 電話: 0748-32-7003
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
0コメント