ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~木曽谷の森林・林業の歴史~ 「木の適材適所は素戔男尊(スサノヲノミコト)が宣われました『檜は建築材に』・・・日本書紀」

はじめに 記事をお届けするに当たり、先の北海道における地震災害、関西地方ならびに中国四国・九州地方における大雨・地震災害で未だ行方不明、並びに亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。


日本書紀によると、素戔男尊(スサノヲノミコト)が生み出した四樹種「杉・楠・槙・檜」
杉と楠は船材、槙は棺材、そして檜は建築材が適していると宣われたそうです。



日本三大美林「赤沢自然休養林」は樹齢300年の壮観!…

木曽街道からの富士山

木曽ひのきの里、上松町「赤沢自然休養林」

赤沢自然休養林は、日本三大美林の一つ。樹齢300年以上の天然木曽檜が林立していますが、原生林ではありません。 1600年代の半ばに、当時の尾張藩が厳しい森林保護政策をもって護り始めたのが、この森の始まりです。 

豊かな森林に抱かれた山里は、澄みきった空気と水が満ち、爽やかな森林が広がります。 信州・木曽路の旅で、たっぷり時間を使って心身を洗濯してみませんか。

「妻籠」名残りの雪が舞うなか、枝垂れ紅梅の花がきれいに咲いています。
雪舞う妻籠宿も風情がありますね~。観光で訪れた方たちは町並みを散策しながら写真を撮り、即インスタにアップされています。今や妻籠宿の情報は世界中を駆け巡っています。そのせいか、最近外国の方たちをよく見かけます。それにしても欧米の方たちは薄着です!
体温が高い所為ですか…


森林管理局からのメッセージ 

「林業の地・木曽谷への誘い」


木曽路は、江戸時代に五街道のひとつ中山道の整備が進むと共に、森林資源を活かした漆器や桶などの木工品の生産と流通が発達、また、旅人を迎える宿場町が栄え、今でも情緒を残す宿場町は、昔の人々の暮らしに回帰する旅行者や、異国の文化へ想いをはせる多くの外国人観光客が訪れます。


木曽谷の豊かな自然と森林はこの地域の歴史や文化を形作りました。特にこの地域の林業は木曽ヒノキをはじめとする良質な森林資源を活かすため、様々な知恵と技術が発達しました。今でもその歴史や文化を垣間見ることができる場所をいくつかご紹介します。


一つ目は木曽谷の林業遺産、林業遺産は日本各地の林業発展の歴史を示す景観、施設、資料等を中心に全国で31件が認定されています。木曽町の「御料館(旧帝室林野局木曽支局庁舎)」はその林業遺産のひとつで、木曽谷最古の洋風建築物であり、当時の雰囲気が復元された建物の中には、昔の木材を運び出すための技術や仕組みを説明した資料や、当時の支局長室が残されています。


ニつ目は木曽五木、木曽地域のヒノキ、サワラ、ネズコ、アスナ口、コウヤマキを差し木曽五木と呼んでいます。木曽谷の森林は尾張藩が治めていた時期に、森林資源の枯渇から森林保護政策としてこれらの木の伐採を禁止しました。「木一本首ひとつ」と言われ厳しく守られた森林は、日本三大美林のひとつ木曽ヒノキ林となり、現在、赤沢自然休養林などでは樹齢300 年生の木曽ヒノキが見ることができます。


この他にも木曽谷には森林や林業にまつわる話が沢山あります。そのいくつかを紹介する「木曽谷の森語り」を木曽森林管理署に開設しました。その中では、森林の文化や歴史、国有林の中の優れた自然景観をGoogleストリートビューでご覧いただくこともできます。 芽吹きを待つ木曽の森林の文化や歴史に興味を持っていただき、沢山の人が足を運んでいただくきっかけになれば幸いです。


 木曽森林管理署長 林 茂 


木曽路はすべて山の中である

島崎藤村の小説「夜明け前」の書き出しで伝えられるように木曽谷のおよそ9割は森林地帯、豊かな自然と森林資源に恵まれた木曽谷の森林と林業はどのように歩んできたのでしょうか。

秋の寝覚めの床

豊臣秀吉時代から尾張藩の時代

さかのぼること安土桃山時代、豊臣秀吉が木曽谷の豊富で優良な木材を利用し始めます。木曽の厳しい自然の中で育ったヒノキは木目が緻密で狂いも少なく加工もしやすいことで、とても重宝され当時大阪城や伏見城などの建築用材として多く利用されました。


100年間の大量伐採による枯渇

続く江戸時代、将軍徳川家康は木曽を尾張徳川領とし、非常に多くの木材を利用していきます。強度伐採(約80%の良材の抜き伐り)を行い、伐られた木材は築城や造船、土木用材等のために利用していました。」」約100年間に及ぶ大量伐採により、木曽谷の木材資源は枯渇していきます。これを危惧した張藩は木材の伐採量を減らし森林保護政策を設けました。


「木一本、首一つ」

鷹の巣を保護し、鷹の育成を図るために住民の立ち入りを厳重に禁止する「巣山」と、ヒノキの優良林分を小地域で指定し、住民の立ち入りを厳重に禁止する「留山」を設け、森林を保護しました。しかし、資源の減少が止まらなかったため、「停止木制度(ちょうじゅぼくせいど)」を設けてヒノキ、サワラ、アスナロ、ネズコ、コウヤマキの伐採を禁止し、それらが木曽五木と呼ばれるようになりました。停止木制度は、俗に「木一本、首一つ」と呼ばれるほどきびしいもので、背いた者には厳罰を処しました。 そして尾張藩の木曽の森林の管理は、明治2年(1869年)まで続き、藩政奉還により国家の所有する官林となりました。

※ヒノキ(檜)、サワラ(椹)、アスナロ(明日桧・アスヒ・ヒバ・あて)は、一般の方たちには、立木を見比べてもほとんど見分けがつかないと思います。一度現地で試してみて下さい。そう言う小生も檜と椹を見間違えます。ただ椹は、「名は体を表す」の例え通り沢を好み枝ぶりが下を向いています。注意してご覧になられれば見分けが付くと思います。


そして尾張藩の木曽の森林の管理は、明治2年(1869年)まで続き、藩政奉還により国家の所有する官林となりました。 尾張藩による保護政策によって作られた樹齢約300年生の木曽ヒノキ林は赤沢自然休養林で見ることができます。


~どうやって運び出した?~

自動車や鉄道のなかった時代、昔の人は山深い木曽からどのように木材を運び出したのでしょうか。 おおきな木材を人あるいは牛馬で運び出すのは非常に大変です。


昔の人は知恵をしぼり地形や谷に流れる水を利用し、いろいろな工夫や仕掛けを組み合わせ効率よく木材を運び出す方法を確立していきます。


これが木材を流送により運び出す木曽式伐木運材法です。赤沢自然休養林内、ふれあいの道や駒鳥コースでは、当時の運材方法の名残りを見ることができます。


また、赤沢自然休養林の交流センターにはその当時の写真や運材模型が展示されています。 この時代は、木材をまず美濃の錦織綱場(現岐阜県八百津町)に運び、そこから筏に組んで尾張国白鳥湊(現名古屋市熱田区)まで運び出した後、海上輸送によって江戸や大阪に送られていました。


余談ですが、熱田区は小生の故郷の一つです。子供の頃から一番長く住みました。よく筏の上で遊び、落ちると筏の下に吸い込まれて浮かび上がれないので、危険だからと筏師のおっちゃんに叱られたものです。


叱られると益々遊びたくなる…子供心とは不思議なものです?当時の堀川はどす黒く川底から二酸化炭素がブクブクと泡をたてて上がっていましたが、今は(故)小山太郎氏はじめ官民一体の努力が実り鮎の遡上もみられるとか・・・当時の惨状を知る者にとっては夢のような話です。

尾張国白鳥湊(現名古屋市熱田区)現在、宮の渡し公園(桑名まで海上七里あり、七里の渡しとも呼ばれていた)東海道五十三次(宮宿~桑名宿)唯一の海路です。

現在は宮の渡し公園として当時の風情を残す!「時の鐘」

江戸時代の気分が味わえる!?当時の雰囲気のまま復元

船で渡ることがなくなった現代では、船着場として栄えた宮宿側の遺構には当時の常夜燈や時の鐘、船着場などが復元され、「宮の渡し公園」として歴史香る憩いの場となっています。 


常夜灯や時の鐘……平成の世に蘇る

常夜灯は寛永2年、犬山城主である成瀬正房が熱田須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立したものの、風害で破損。承応3年からは現在の位置で宮の渡しの安全を見守る役となりました。


しかし、またしても火事で焼失。ほどなくして再建されたもののすぐに荒廃。昭和30年になってやっと当時とほぼ同じ位置に復元されました。


時の鐘は延宝4年に尾張藩主・徳川光友の命によって作られたもの。熱田の住民や東海道をゆく旅人に時刻を知らせる役目を担いました。江戸時代に使われていた鐘は、今も蔵福寺に保管されています。昭和58年に宮の渡し公園内に復元され、ふたたび近隣住民や訪れた人に時間を知らせています。


これは、赤沢自然休養林ふれあいの道沿いにある床堰という施設です。 床堰は小沢に堰(ダム)を作り、水を溜めた後に、堰の一部を壊し、水と木材を一気に流し出し、下流へと木材を運び出す施設です。現在見られるのは「床堰」の基礎の一部です。木曽川の支流から本流まで運び出すことを小谷狩り(こたにがり)といい、その小谷狩の最上流部に造られたのが床堰です。


神宮備林の時代

明治22年(1889年)、それまで官林だった木曽の森林は「御料林」に編入し、宮内省御料局が管理経営していました。御料局の木曽支庁は明治36年(1903年)に木曽福島に設置されました。


昭和22年(1947年)に国有林に変わると、長野営林局の庁舎として使用され、その後、福島営林署、長野営林局森林技術センター、中部森林管理局の森林技術第一センターとして使用され、平成16年(2004年)に庁舎としての歴史に幕を閉じました。 旧帝室林野局木曾支局庁舎は、現在、御料館として当時の林野行政の資料等が展示されています。


そして明治39年(1906年)、木曽谷の御料林の中に、「神宮備林」が設けられました。伊勢神宮では、20年毎に神宮の建物や調度品を造りかえ、新しく清浄な神殿に神様のお遷りを願う「式年遷宮」を行います。式年遷宮は690年から行われおり、鎌倉時代までは神宮の山から御用材を伐り出していましたが、良材が枯渇したため、江戸時代からは木曽谷から御用材を伐り出されるようになりました。


神宮備林は、20年ごとに行われる伊勢神宮の造営のため木曽ヒノキの供給を目的としており、木曽ヒノキの成長を助け、ヒノキ稚樹を発生させるために、当時は木曽ヒノキ以外の木を中心に抜き切りをしていました。


この当時、直径60cm以上で形質優良な木曽ヒノキを「大樹」として台帳に載せ管理しており、大樹は木曽谷全体では18,000本が選ばれ、赤沢自然休養林周辺では2,690本が指定されました。

「式年遷宮」木曾にて

「式年遷宮」伊勢 五十鈴川にて

伊勢神宮内宮正宮

またこの時代には、鉄道の発達により、それまで河川を利用して流送していた木材を貨車で輸送するようになりました。これに伴い、鉄道の駅まで木材を運ぶための森林鉄道が建設され、最盛期には木曽谷の総延長が400kmを越えていました。1916年に、木曽谷で最初の、上松駅と赤沢を結ぶ「小川森林鉄道」が完成しました。森林鉄道は、1977年に王滝事務所管内のうぐい川線が廃止され、トラック輸送に切り替わるまでの約60年の間、木材輸送や山村に暮らす人々の足として活躍しました。


赤沢自然休養林園地内にある森林鉄道記念館では、当時使われていたアメリカ製蒸気機関車(ボールドウィン)や森林鉄道の歴史的資料、写真等が展示されています。また、隣の森林鉄道乗場では、当時、実際に使われていた森林鉄道を客車にして、赤沢自然休養林内を周遊できます。


国有林の時代

昭和22年(1947年)に、林政統一が行われ、木曽の森林は国有林となりました。

現在も、木曽谷から式年遷宮で使われる御用材を伐り出しております。昭和60年(1985年)には小川入国有林98林班で、平成17年(2005年)には小川入国有林80林班で「御杣始祭」を行いました。御杣始祭は、式年遷宮の祭典の一つで、伊勢神宮の御神体を安置する器を造る、御樋代木を伐採する儀式です。御杣始祭で伐られた御神木は、化粧がけをし、長さ6.6mに伐られ、赤沢から上松駅まで運ばれ御木曳きが行われます。その後、御神木は木曽川に沿って伊勢まで運ばれます。


 赤沢自然休養林内の駒鳥コース沿いで、昭和60年に「御杣始祭」が行われました。向かって左の切り株が皇大神宮(内宮)、右の切り株が豊受大神宮(外宮)の御神木です。 この時は、御神木輸送のために森林鉄道が特別に運転されました。

林政統一による木曽御料林の国有林への合併により、それまで長野県にあった国有林に奈良井、藪原、福島、上松、王滝、野尻、三殿、妻籠、坂下と上松運輸の10営林署を加えた19営林署を保有する長野営林局ができました。


国有林となっても森林鉄道は延長され、ピーク時には管内全体で500kmとなり、木曽ヒノキの搬出が続きました。また、戦後の経済復興に伴う木材需要の急増や、昭和34年(1959年)の伊勢湾台風、昭和36年(1961年)の第二室戸台風の風倒木により伐採量が増加し、昭和39年には128万m3と過去最高となりました。

現在は、木曽ヒノキの永続供給方針により保護されています。


また、国民の健全なレクリエーションの場として森林を提供することも国有林の使命の一つとして、昭和43年度から自然休養林の制度が始まり、木曽谷でも木曽御岳自然休養林や赤沢自然休養林が設定されました。

御嶽山は、標高が3,067m、長野県木曽郡木曽町・王滝村と岐阜県下呂市・高山市にまたがり大きな裾野を広げる独立峰です。信仰の山として富士山・立山・白山・大山とともに知られ、古くからの信仰登山や、頂上付近に五つの火口湖を目指して、多くの登山客が登る人気の山です。

フィトンチッドがいっぱいの「赤沢自然休養林」

特に、小川入国有林にある赤沢自然休養林は、昭和44年(1969年)に全国で初めての自然休養林に設定され、翌年の昭和45年(1970年)に開園しました。赤沢自然休養林では、昭和57年(1982年)に第一回全国森林浴大会が開催され、その当時の林野庁長官秋山智英によって提唱されたことから、赤沢自然休養林は森林浴発祥の地とも呼ばれています。

森林浴発祥の地「赤沢自然休養林」ヨガや瞑想に耽る人も・・・

また、昭和24年(1949年)に赤沢で全国に先駆けてアメリカ製のチェンソー(マッカーラ社)を試験伐りしたことから、チェンソー導入の地としても知られています。


続く・・・



鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使



協力(順不同・敬称略)

農林水産省・林野庁
中部森林管理局 〒380-8575長野県長野市大字栗田715-5TEL:050-3160-6513

 一般社団法人 上松町観光協会
〒399-5601長野県木曽郡上松町大字上松159-3電話0264-52-1133

(財)妻籠を愛する会
〒399-5302長野県木曽郡南木曽町吾妻2159-2 電話: 0264-57-3513

妻籠観光協会 観光案内所 長野県木曽郡南木曽町吾妻2159-2 TEL:0264-57-3123

熱田区役所 〒456-8501 名古屋市熱田区神宮三丁目1番15号 電話番号:052-681-1431 

一般社団法人 愛知県観光協会
〒450-0002 名古屋市中村区名駅4-4-38 愛知県産業労働センター1階 TEL 052-581-5788 

公益社団法人伊勢志摩観光コンベンション機構〒519-0609 三重県伊勢市二見町茶屋111-1
伊勢市二見生涯学習センター1F 電話番号 0596-44-0800

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鎹八咫烏 記
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ZIPANG-3 TOKIO 2020

2020年東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、神社仏閣、祭礼、伝統芸能、風習、匠の技の美、世界遺産、日本遺産、国宝等サイトを通じて平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです。

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