ZIPANG-3 TOKIO 2020「~ 大伴家持の足跡を『越の国』に辿る ~『立山の 雪し来(く)らしも 延槻(はいつき)の 河の渡り瀬 鐙(あぶみ)浸(つ)かすも』(2)」

はじめに 記事をお届けするに当たり、先の北海道における地震災害、関西地方ならびに中国四国・九州地方における大雨・地震災害で未だ行方不明、並びに亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。


立山の 雪し来(く)らしも 延槻(はいつき)の 河の渡り瀬 鐙(あぶみ)浸(つ)かすも

早月川と剱岳(富山県新川郡上市町折戸)「剱いおりの郷」近郊

早月川と剱岳「鐙(あぶみ)浸(つ)かすも」なので、此れ位の水量でしょうか?

早月川と剱岳 絶景ポイントからの眺め。巨大な雪山が迫ってくるような「剱岳」の雄姿

(剱いおりの郷より1km)


高岡市万葉歴史館

大伴家持と万葉集


大伴氏の跡取り

大伴家持(おおとものやかもち)は大伴旅人(おおとものたびと)の長男で、生まれ年は養老(ようろう)2年(718)といわれています。母は旅人の正妻ではなかったのですが、大伴氏の家督(かとく=相続すべき家の跡目)を継ぐべき人物に育てるため、幼時より旅人の正妻・大伴郎女(おおとものいらつめ)のもとで育てられました。けれどもその郎女とは11歳の時に、また父の旅人とは14歳の時に死別しました。


家持は大伴氏の跡取りとして、貴族の子弟に必要な学問・教養を早くから、しっかりと学んでいました。さらに彼を取り巻く人々の中にもすぐれた人物が多くいたので、後に『万葉集』編纂の重要な役割を果たす力量・識見・教養を体得することができたようです。またその歌をたどっていくと、のびのびとした青春時代をすごしていたようです。


二上山の頂上にも、大伴家持の銅像が建立されています。  

越中に国守として赴任

天平10年(738)に、はじめて内舎人(うどねり=律令制で、中務(なかつかさ)省に属する官。名家の子弟を選び、天皇の雑役や警衛に当たる。平安時代には低い家柄から出た。)として朝廷に出仕しました。その後、従五位下(じゅごいげ)に叙(じょ)せられ、家持29歳の年の天平18年3月、宮内少輔(しょうふ=律令制の省の次官)となります。同年6月には、越中守に任じられ、8月に着任してから、天平勝宝3年(751)7月に少納言となって帰京するまでの5年間、越中国に在任しました。


着任の翌月にはたった一人の弟書持(ふみもち)と死別するなどの悲運にあいますが、家持は国守としての任を全うしたようです。この頃は、通常の任務のほかに、東大寺の寺田占定などのこともありましたが、この任も果たしています。


家持の越中国赴任には、当時の最高権力者である橘諸兄が新興貴族の藤原氏を抑える布石として要地に派遣した栄転であるとする説と、左遷であるとする説があります。


帰京後、政権の嵐の中で

家持は越中守在任中の天平勝宝元年(749)に従五位に昇進しますが、帰京後の昇進はきわめて遅れ、正五位下に進むまで21年もかかっています。しかもその官職は都と地方との間をめまぐるしくゆききしており、大伴氏の氏上としては恵まれていなかったことがうかがわれます。橘氏と藤原氏との抗争に巻き込まれ、さらに藤原氏の大伴氏に対する圧迫を受け続けていたのでしょう。


家持は一族を存続するため、ひたすら抗争の圏外に身を置こうとしますが、そのため同族の信を失うこともあったようで、一族の長として奮起しなくてはならぬという責務と、あきらめとの間を迷い続けていたことを、『万葉集』に残した歌(4465・4468など)からうかがうことができます。


因幡国守、そして多賀城へ

天平宝字3年(759)正月1日、因幡の国庁における新年の宴の歌を最後に『万葉集』は閉じられています。この歌のあと家持の歌は残されていません。家持がこの後、歌を詠まなかったのかどうかもわかりません。家持は晩年の天応元年(781)にようやく従三位の位につきました。また、中納言・春宮大夫などの重要な役職につき、さらに陸奥按察使・持節征東将軍、鎮守府将軍を兼ねます。


家持がこの任のために多賀城に赴任したか、遙任の官として在京していたかについては両説があり、したがって死没地にも平城京説と多賀城説とがあります。


宮城県多賀城市「浮島神社」

浮島神社

こんもりと緑が繁る小さな丘の上にあります。周囲に民家がない時代はまさしく浮島のように見えたことでしょう。創建年代は不明ですが、多賀城が栄えた平安時代には既に存在したと伝えられています。近くに光源氏(ひかるげんじ)のモデルと云われる源融(みなもとのとおる)を祀ったといわれる大臣(おとど)の宮がありましたが、現在、この浮島神社に合祀(ごうし)されています。

浮島神社

「しほがまの 前に浮きたる 浮島の 浮きて思ひの ある世なりけり」 山口女王が大伴家持へ遣わした歌。この歌に詠まれた歌枕「浮島」が浮島神社だといわれています。

松尾芭蕉の『おくのほそ道』には、浮島は記載されていませんが、随行した弟子の河合曾良の『曾良旅日記』には、浮島に立ち寄っていたことが記載されています。


家持の没後

家持の没後 延暦4年(785)68歳で没しました。埋葬も済んでいない死後20日余り後、藤原種継暗殺事件に首謀者として関与していたことが発覚し、除名され、領地没収のうえ、実子の永主は隠岐に流されます。家持が無罪として旧の官位に復されたのは延暦25年(806大同元年)でした。


家持と万葉集、越中時代

家持の生涯で最大の業績は『万葉集』の編纂に加わり、全20巻のうち巻17~巻19に自身の歌日記を残したことでしょう。家持の歌は『万葉集』の全歌数4516首のうち473首を占め、万葉歌人中第一位です。しかも家持の『万葉集』で確認できる27年間の歌歴のうち、越中時代5年間の歌数が223首であるのに対し、それ以前の14年間は158首、以後の8年間は92首です。


その関係で越中は、畿内に万葉故地となり、さらに越中万葉歌330首と越中国の歌4首、能登国の歌3首は、越中の古代を知るうえでのかけがえのない史料となっています。


異境の地で深まる歌境

越中守在任中の家持は、都から離れて住む寂しさはあったことでしょうが、官人として、また歌人としては、生涯で最も意欲的でかつ充実した期間だったと考えられています。そして越中の5年間は政治的緊張関係からも離れていたためか、歌人としての家持の表現力が大きく飛躍した上に、歌風にも著しい変化が生まれ、歌人として新しい境地を開いたようです。


玉くしげ 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり (巻17-3987・大伴家持)


渋谿(しぶたに)の 二上山に 鷲(わし)そ 子産(こむ)といふ  指羽(さしは)にも 君がみために
鷲そ子産といふ (巻16-3882・越中国歌)


二上山から 射水川(現在の小矢部川)を望む

越中の風土の中で

国守の居館は二上山(ふたがみやま)を背にし、射水川(いみずがわ)に臨む高台にあり、奈呉海(なごのうみ)・三島野(みしまの)・石瀬野(いわせの)をへだてて立山連峰を望むことができます。また、北西には渋谿(しぶたに)の崎や布勢(ふせ)の水海など変化に富んだ遊覧の地があります。家持はこの越中の四季折々の風物に触発されて、独自の歌風を育んで行きました。『万葉集』と王朝和歌との過渡期に位置する歌人として高く評価される大伴家持の歌風は、越中国在任中に生まれたのです。

伏木台地推定復元ジオラマ(高岡市万葉歴史館 蔵)

「二上山」は、その名のとおり2つの峰をもつ山でした。 2峰のうちの西峰は、室町時代に守山城が築かれたため削られており、見る角度によっては「二上」に見えません。

東峰は標高274mあります。

家持はこの山を題材にした多くの歌を詠んでいます。きっと家持が住んでいた国守館跡からは、当時は二上山がよく 見えたのでしょう。 同じ名前の「二上山」がある都を恋しく思いながらこ朝夕に眺めていたのかも知れませんが、越中の 二上山の四季の美しさに感動したのでしょうか。 なお守山城は、その後上杉謙信の攻撃を受けたり、越中を制圧した豊臣秀吉方の前田利長の居城となったりと、歴史を 重ね、江戸時代初期の元和元年に廃城となりました。 現在は、城跡に観音像が建ち八重桜の美しい公園として知られています。  


剱いおりの郷

富山県新川郡「上市町の由来」

剱岳は古くから山岳信仰の山でありました。山頂付近から、平安時代のものと推定される錫杖頭が発見されています。もともと上市川沿いの丸山台地には、先土器時代の遺跡があり、古くから人が住んでいました。


山岳信仰が盛んになるにつれ、その道筋であった上市には、やがて法音寺の門前町を中心に三のつく日に「三日市」が開かれ、近在から多くの人が集いはじめました。その後、三日市の上にあたる東に「上の市」が開かれ、やがて呉東(富山県では呉羽山より東を呉東、西を呉西と呼んでいます。)随一といわれるほどの賑わいをもつ町並がつくられました。上市野と称され、町の前身となった。文政7年(1824)の資料には、450戸の戸数が記録されています。


明治22年4月町村制実施によって上市町となり、その後音杉村、南加積村、山加積村、宮川村、大岩村、柿沢村、相ノ木村、白萩村などを合併し、現在に至っています。


剱いおりの郷について

剱いおりの郷は、剱岳登山の基地として知られている馬場島へ向かう途中に位置し、豊かな自然に囲まれています。 貴重な上市町伊折地区の自然を保護し、人々に、安心・安全を提供しています。
剱いおりの郷においてご提供している食事は、心と身体の健康を感じていただけるよう、全て国産のものを利用し、山菜は自分たちで採取・栽培したものを利用しています。

10 大伴家持の歌碑

大伴家持は、日本最初の和歌集である『万葉集』の撰者で、古代を代表する歌人として越中国司として有名です。

天正20年(748)の春、伏木の国府から馬で早月川を渡った時の詠みです。

 “立山の 雪し来(く)らしも 延槻(はいつき)の 河の渡り瀬

鐙(あぶみ)浸(つ)かすも” 

 この延槻河は今の早月川で、文献上の一番古い記録となります。 立山の雪解けのために水量が増している情景と、馬上豊かに颯爽とした若き貴公子の姿を詠んだ一幅の名画のようなこの歌は、富山が生んだ国学者・山田考雄(やまだ よしお)博士の筆で万葉仮名のまま彫り込んであります。


02 剱岳絶景ポイント

早月川の堰堤から飛び出す滝の流れと、その後ろに迫る剱岳の景観も絶景ポイントの一つ。 迫力ある早月の滝が生み出すマイナスイオンは、その涼やかさで日常の疲れを優しく癒してくれます。 この場所は『剱せせらぎの小径の散策コース』の延長上にあるので、少し足をのばしてみれば出会うことができます。 (剱いおりの郷より1km)


01 剱せせらぎの小径

「こんな所にこんな素晴らしい癒しの空間が存在していたのか」 と感嘆される程のこの場所は、繁った木々がその間から優しく日の光をこぼしてくれます。

緑の間を縫うように流れる小川には、その綺麗な湧水で育ったイワナがその鱗を光らせながら暮らしています。 いおりの郷から程近い散策コースとして楽しまれています。
(剱いおりの郷より500m)


07 覚石(おぼえいし)

天正12年(1584)、佐々成政が遠州浜松の徳川家康と盟約を結ぶべく、雪中『さらさら越え』をしたことは有名ですが、この地方では立山越えの際のルートは、この地であったと信じられています。

この時、積雪のため軍用金をこの高島に埋め、覚えとしてこの大石を目印に決めたといわれています。 この地域の人はこの石を「覚石」と呼んで見守っています。
(剱いおりの郷から 1㎞)


03 伊保里神社

この地には、昔から誉田別命(ほむだわけのみこと)を祭神とする八幡社と、天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭神とする神明社の二つの神社がありましたが、明治44年に二つの神様を合祀して伊保里神社となりました。 村人の信仰心は強く、現在でも春(4月)と秋(9月)に祭礼が執り行われています。 その後は、地元を離れた皆さんの暖かい情報交換の場となっています。
(剱いおりの郷から 100m)


05 伊折の桜(伊折橋付近)

4月の下旬頃には、2008年より植樹した桜(250本以上)が左岸側に咲き誇り、山々に点在する野桜と共にいおりの春を華やかに彩ってくれます。 (剱いおりの郷より800m)

06 岩に大蛇(伊折橋下)

『伊折橋』の下に2.5m四方の大石があります。 その石の中央部は7~8㎝の濃い色が長く連なり、先端はあたかも大蛇がかま首をもたげたようになっています。 一部交差している部分があり、あたかも大蛇が二匹いるようにも見えます。 この地区の村人は「この大蛇は、水の守り神として水害からここの村々を守ってくれているに違いない」と大石をとても大切にしています。
(剱いおりの郷から 800m)


08 石碑からの剱岳絶景ポイント

この石碑は、千石キャンプ場から剱青少年研修センターを繋ぐ林道千石・伊折線の開通記念として、現・上市町町長(伊東尚志)が建立したものです。

石碑が佇むこの地からは、周りの山々も含めた剱岳全体を一望することができます。

この林道は初夏には新緑、秋頃には紅葉を楽しめる絶好のドライブコース(4月下旬~12月上通行可)として利用されており、また、伊折橋から石碑まで徒歩25分程なので、ウォーキングやトレッキングコースとしても楽しまれています。
(剱いおりの郷より2km)

09 守護与平宮

今から約150年前、早月川の上流にある折戸村は、とんでもないあばれ川であるこの川にとても苦しめられてきました。

そこの村人である『与平』という若者は、とても信仰深く、心の優しい人物でした。 彼は、自分の村からとても遠い上市村に買い物に行く際には、必要なものがあれば買ってくるから、といつも村中の人々に声をかけていました。

ある時、上市村まで買い物に出て頼まれた用事に奔走していると、どこからか与平を呼ぶ声が聞こえてきました。 声が聞こえる方へ近づいていくと、そこには百貫にもなる大石が話しているではありませんか。

その石は与平に、「与平、おまえの親切にはいつも感心しておる。わしは水の神なのじゃが、どうも早月川が大雨の度に洪水を起こし、おまえたちを困らせておるようではないか。わしが守ってやるから背負って連れて行くがよい。」 と言うので、与平はとても有難いとかしこまり、山のような荷物と共に石を持ち上げてみました。

大きな見た目とは裏腹にとても軽いその石に驚きましたが、おかげでなんの心配もなく村までたどり着くことができました。 与平は村の人々と話し合って祠を作り、そこに神様を祀りました。

それからは早月川の洪水も減り、村の人々は大変助かりました。 村ではこの石を『与平の宮』と名付け、田んぼの守護神として毎年5月7日お祭りを行っています(旧白萩東部小学校校庭横に現存)。
(剱いおりの郷から 4㎞)


11 下田の金山

天正二年(1574年)に下田で金が発見され、最盛期には千人を超える鉱山夫が集まり賑わった地区です。

加賀藩直轄の金山として栄え、藩の財政を支えてきたこの鉱山と村の繁栄と衰退の歴史は、毎年地元の小学校の校外学習等をもって今も学び、語り継がれています。

山中に残っている坑道は現在は整備されており、中を見学することができるほか、旧村民の皆さんが保管展示されている金山坑道具や、炭窯等ご覧になることができます。

下田の手前には吊り橋がかかっており、『富山県七大河川』の一つである早月川の急流を真上から観望できます。
(剱いおりの郷から 7㎞)

12 中村の大杉

中村地区東端にある巨大な立山杉です。
本来、立山杉がこの用に低地にあることは珍しく、もともとは立山の風雪から守るための杉並木でしたが、現在では、この一本を残すのみとなりました。

昭和23年1月27日に上市町教育委員会によって、天然記念物に指定されました。

種別 天然記念物(上市町文化財第5号)
所在 上市町中村(白萩東部校下)
所有 中村集落共有
樹齢 約550年 樹高 約35m
太さ 根回り:地上6m80㎝ 地上3mで13本の枝が出て直上している


大伴家持の足跡を辿るシリーズ「高岡市編」の最後に高岡市万葉歴史館の「四季の庭」をご紹介いたします。次号は「射水市編」のご紹介となります。関係者皆様のご協力に感謝申し上げます。


高岡市万葉歴史館

四季の庭

万葉集ゆかりの草花や樹木などの植物が、それぞれの四季を趣き深く彩る回遊式庭園です。

 


鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使



協力(順不同・敬称略)

高岡市万葉歴史館 〒933-0116 富山県高岡市伏木一宮1-11-11 TEL:0766-44-5511

剱いおりの郷 富山県中新川郡上市町伊折951 TEL:076-473-3680

公益社団法人 高岡市観光協会 富山県高岡市御旅屋セリオ7階TEL:0766-20-1547

多賀城市観光協会 〒985-0873 宮城県多賀城市中央2丁目7-1電話:022-364-5901



※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。

 



  





ZIPANG-3 TOKIO 2020

2020年東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、神社仏閣、祭礼、伝統芸能、風習、匠の技の美、世界遺産、日本遺産、国宝等サイトを通じて平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです。

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