はじめに 記事をお届けするに当たり、先の北海道における地震災害、関西地方ならびに中国四国・九州地方における大雨・地震災害で未だ行方不明、並びに亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
大伴家持の創建「放生津八幡宮」
放生津八幡宮は御神輿及び13本の曳山にてお出迎えし、両陛下の天覧を賜りました。
天皇皇后両陛下行幸啓
富山県射水市「第35回 全国豊かな海づくり大会」
平成27年10月24日・25日、富山県射水市にて「第35回 全国豊かな海づくり大会」が開催され、
天皇皇后両陛下が御来臨されました。
天皇皇后両陛下が御来臨され、富山湾へ稚魚放流行事に臨まれました。
放生津八幡宮は御神輿及び13本の曳山にてお出迎えし、両陛下の天覧を賜りました。
大伴家持の創建による
放生津八幡宮
由緒1
嘉祥元年(848)8月に記された当宮の由緒を要約すると、「天平18年、越中国守、大伴家持が奈呉の浦を遊船中、にわかに風が強くなり、波濤高く船の舷に激しくうちつけた。家持は、掌で潮水を掬い、両手を合わせてひたすらに宇佐八幡神に祈願した。すると、たちまち順風に変わり、無事国府に帰ることができた。そこで、家持は、天平19年8月に、本殿、拝殿、七堂伽藍を建立し、宇佐八幡神を勧請した。・・・」というもの。家持は、強風で船が転覆しそうになり、命の危険にさらされたが、宇佐八幡神のご加護により助かったということが語られています。
当時は、朝廷の宇佐八幡宮への信仰が高まっている時期でありました。天平17年(745)に、聖武天皇が病気に罹られ重篤な症状に陥られた。朝廷では、宇佐八幡宮に聖武天皇の病気平癒祈願を行った。その甲斐あって聖武天皇の病気が快復しました。
八幡総本宮 宇佐神宮
天平19年(747)新年早々、家持は、重病に罹り病床に着くことになる。家持自身、命の危険を感じていたことが万葉集から窺えます。正倉院文書によると、2月23日に、佐保の大伴家では氏寺で、十一面観音菩薩に家持の病気平癒祈願を行ったという記載がある。家持の重病の報が奈良の大伴家にも伝えられていたことが分かる。2月29日に、家持が越中掾、大伴池主に宛てた書簡によると、「百神に祈り、ようやく病が小康状態になった。・・」という趣旨のことが書かれています。家持が祈った百神の筆頭に、聖武天皇の病気平癒に霊験のあった宇佐八幡神がおられたのではなかろうか。
奈良時代に国府があった高岡市伏木と、射水川(現小矢部川)を挟んで対峙する 新湊市の海浜部に「奈呉」と称する地区があります。
「奈呉の浦」は、この一帯の海岸のことを指しています。 その奈呉の浦近くにある放生津八幡宮には、家持を祀る「祖霊社」があります。 下の白黒写真は、八幡宮裏にひろがる「奈呉の浦」の景色ですが、 現在は、近代的な 漁港となっています。
家持作の
「あゆの風 いたく吹くらし 奈呉の海人の 釣する小舟 漕ぎ隠る見ゆ」
の歌に詠まれているように、奈呉にはすでに海人の集落があり漁業を営んでいたことが窺えます。奈呉は当宮の鎮座地であります。家持は、国守として海人の暮らしぶりに関心を持ち、実際に舟に乗って海人の暮らしぶりを見廻られたに違いない。そして、海人の暮らしの安寧と海幸の豊かなことを祈られたと考えられます。 この由緒には、家持の強い祈願によって宇佐八幡神が勧請されたことが背景にあると考えられます。
放生津八幡宮は、大伴家持によって創建され、当初は奈呉八幡宮と称されていました。
由緒2
文化13年(1816)に建立された大伴宿禰家持卿顕彰碑(おおとものすくねやかもちきようけんしようひ)による当宮の由緒は、『天平18年8月のある夜、家持の夢に貴女が現れ、「私を祀れば、世の中が平和になるあろう。」とのお告げがあった。家持が貴女に名前を尋ねたところ「私はこの地域を治める道主貴(みちぬしのむち)」と答えられたという。このことを家持が国府の館で話したところ、介内蔵忌寸縄麻呂(すけくらのいみきなわまろ)と大目秦忌寸八千島(だいさかんはたのいみきやちしま)も同じ夢を見たという。それで、天平18年8月庚寅(かのえとら)日、祠を建てて祀った。』とあります。
この由緒は、当宮の建立に国府の役人達が関わっていたことを物語っていると考えられます。
大伴家持が越中国守として赴任してきた頃、聖武天皇の発願により東大寺の大仏建立が国家的事業となっていた。宇佐八幡宮のご神託があり、宇佐八幡神みずから、天神地祇を率いて大仏建立に協力するというお告げであった。天平17年(745)には、東大寺の大仏の建立が始まりました。
宇佐八幡神の入境(東大寺八幡縁起絵巻)
天平18年(746)に越中に赴任した家持の重要な任務のひとつは、東大寺の寺領を占定し、開墾を進めることであった。正倉院に東大寺墾田地地図(とうだいじこんでんちちず)が保管されている。24枚のうち、17枚までが越中国のものである。現存する墾田地地図の中で越中国のものが最も多い。
万葉集によると、家持は、東大寺領の占定と開墾のようすを視察にやってきた東大寺僧・平栄を丁重に迎え、歌を送り宴を催している。また、越中の国師の従僧・清見をもてなす宴を催している。家持ら国府の役人達は、東大寺の墾田地の占定や開墾に奔走していたと考えられる。後に、内蔵忌寸縄麻呂(くらのいみきなわまろ)は、造東大寺司判官に任命されている。この人事は、越中国での東大寺領の占定作業に携わった実績が反映しているものと考えられます。
秦忌寸八千島(はたのいみきやちしま)は、秦氏の出身であり、秦氏は、内蔵氏と同様、その先祖が應神天皇の御代に渡来してきた人々の子孫であります。当時の小目(しようさかん)は、秦忌寸石竹(はたのいみきいわたけ)であり同じ秦氏の出身です。秦氏は、精銅の技術をもった人々であり九州の北部に多く定住しました。宇佐八幡宮の神職のひとつであった辛島氏は、秦氏の一支族であるという。 この由緒は、本殿に収められていたものであり、当宮の由緒とともに家持卿の功績を後世に伝えるために石碑に刻んだと記されています。
一、鎮座地 射水市八幡町2丁目2番27号
一、祭 神 應神天皇(品陀和気命(ほむだわけのみこと))
配 祀 仁徳天皇(大鷦鷯命(おおさざきのみこと))
一、境内社
來名戸社 (祭神)八衢比古命(やちまたひこのみこと)・八衢比売命(やちまたひめのみこと)
火の宮社 (祭神)軻遇突智命(かぐつちのみこと)
祖霊社 (祭神)大伴 家持(大伴宿禰家持:おおとものすくねやかもち)
一、末 社
魚取社 (祭神)事代主命(ことしろぬしのみこと)
一、祭礼
9月30日 霊迎式、祖霊鎮魂祭、前夜祭、曳山入魂祭
10月1日 神輿渡幸祭、曳山供奉
10月2日 秋季例大祭、放生会式、築山祭(築山飾り)
10月3日 報賽祭
大伴 家持 祖霊社
鎮座地について
郷土出身の偉大な詩聖、牧野茂(鉄篴(てつてき))が昭和14年に当宮に奉納した漢詩文に「東は太刀山の連峰を仰ぎ、北は日本海の蒼波に枕(のぞ)み、右に海龍湖あり、左に射水川あり・・・」と歌った。その景勝地が当宮周囲の風景であります。
心をつなぐ虹の架け橋「神楽橋」
万葉の時代、布勢水海と呼ばれたこの地には、大伴家持がたびたび遊覧に訪れ、美しい情景を歌に残しています。
ステンドグラスが夕陽に映えて美しい神楽橋は、神楽通りの改修により新しく内川に架けられた橋です。装飾は、地元出身のステンドグラスなどの工芸作家 大伴二三彌氏が作製したもので、72枚の故郷の思い出をテーマにしたステンドグラスがはめ込まれ、曳山の飾り車輪・ケイトウ・魚・かもめ・チューリップなどがデザインされています。大伴二三彌氏は富山県の生まれ、医師と宮司をしていた晃氏の書画好きの影響を受けて育ち、安井曽太郎、鶴田五郎画伯に油彩を習いマチスに影響を受け、ステンドグラスの道へ・・・
万葉の昔、越中国守・大伴家持が
「あゆの風 いたく吹くらし奈呉(なご)の海人(あま)の 釣りする小舟 漕ぎ隠る見ゆ」
と万葉集に歌ったように、奈呉の浦に面しています。また、
「湊風(みなとかぜ) 寒く吹くらし 奈呉の江に 妻呼び交わし 田鶴(たづ)さわに鳴く」
と歌ったように越の潟(こしのかた)に隣接していました。奈良時代から海人の集落があり、漁業が行われていたことが万葉集から窺えます。
当宮は、その奈呉の地に、越中国守大伴家持が、宇佐八幡神を勧請し、奈呉八幡宮として鎮座された。この地域は、当宮の放生会に由来し、放生津と呼ばれるようになりました。
鎌倉時代の古文書に放生津(ほうじようづ)の名が見られ、鎌倉時代には地名として定着していたことが分かります。鎌倉時代に、放生津に守護所が置かれ、越中国の武家政治の中心地となりました。鎌倉期以来、放生津は港町として栄え、近世に至っては、北前船の交易でも栄え、漁業とともに繁栄しました。
家持が歌に詠んだ時代には入り江であった奈呉の江が、土砂の堆積で潟湖になりました。
潟湖は越の潟と呼ばれ、牧野茂の漢詩では海龍湖と歌われていました。その海龍湖が富山新港となり時代とともに変貌を遂げています。
射水川も万葉集に歌われた川であり、現在の小矢部川であります。
万葉の昔より変わらぬ雄姿を見せるのが立山連峰。立山からの日の出は美しい。
初夏から初秋にかけては、立山から昇る朝日が、奈呉の海にきらめいて朝凪の海を美しく染めた。立山連峰と弧を描く海岸線と朝凪の海に出入りする船はこの地域の風物詩であった。
現在は、その奈呉の浦も埋め立てられ、新湊漁港になった。新湊漁港の北東の埋め立て地には、帆船海王丸が係留され海王丸パークになっています。奈呉の浦にも時代の波が押し寄せているのです。
略記
当宮は、聖武天皇(しようむてんのう)の御代、天平18年(746)越中国守・大伴宿禰家持卿(おおとものすくねやかもちきよう)が常に奈呉の浦の景勝を愛され、郷人に敬神の念を普及せしめんとの深慮により、豊前国宇佐八幡神を勧請して奈呉八幡宮(なごはちまんぐう)と称したのが創始といわれ、秋季例大祭には放生会が営まれ、永々として今日に伝えています。
放生津の地名は、嘉暦(かりやく)3年(1328)これにより名付けられたといわれています。
村上天皇(むらかみてんのう)の御代、應和3年(963)に、攝津国守・橘朝臣仲遠(たちばなのあそんなかとお)が、相殿に宗像の三女神を祀りました。
花園天皇(はなぞのてんのう)の御代、正和(しようわ)年間(1312~)に越中守護・名越時有(なごえのときあり)が社殿を造営し、神領八幡田を寄進しました。
南北朝時代、南朝方の武士を頼って宗良親王(むねよししんのう)が越中国放生津に数年間滞在されました。
室町時代、第3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が、南朝方に味方した姫野一族の領地を没収し石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に寄進。その領地に放生津湊が含まれていたのでした。石清水八幡宮領になった放生津湊は、石清水八幡宮への年貢を納めなければいけないため、運上にかかる税を停止し、代わりに石清水八幡宮への年貢を納めるよう将軍は命じられたそうです。
応仁の乱の時、越中守護代・神保長誠(じんぼながのぶ)が、畠山政長(はたけやままさなが)に味方し、武勇に秀でた猛将として活躍し、さらに長誠は、戦国時代の始め、明応(めいおう)の政変(1493年)によって幽閉された第10代将軍・足利義材(あしかがよしき)(義稙(よしたね))を6月29日の暴風の夜に救い出し、越中国放生津に連れ出したのでした。
武士が放生津に来訪した時の有様は、なんとか幕府の体裁はとっていたものの・・・。
第11代将軍・足利義澄(あしかがぎずみ)と管領・細川政元(ほそかわまさもと)を中心とした京都の幕府と、足利義材と神保長誠を中心とした放生津の小幕府が対立する構図となり、神保氏は当宮への信仰が篤く、度々社参したと伝えられています。
永禄(えいろく)年間(1558~)神保長職(じんぼながもと)と上杉輝虎(うえすぎてるとら)が度々合戦し、その兵火にかかり灰燼に帰した。その後、神保長職は上杉輝虎と和睦し、長職が当宮を再興したと伝えられています。
天正4年(1576)に、上杉輝虎が放生津で『十楽の市』を開いたことが知られています。
天正9年(1581)には、神保長住が、八幡領町で、商業を保護する制札を出しています。
戦国時代末期天正13年(1585)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)と富山城主、佐々成政(さつさなりまさ)が対立し合戦となり豊臣秀吉が勝利し、その際活躍した前田利長(まえだとしなが)は、秀吉から射水、砺波、婦負の3郡を併せた32万石の領地を与えられ、守山城の城主になりました。
守山城主、前田利長公は信仰篤く、天正年間(1585頃~)度々当宮を参拝され、「八幡宮」の題字を染筆奉納されたのでした。
弘化(こうか)2年(1845)2月、放生津の大火にかかり、社殿、宝物等を消失。
現在の社殿は、文久(ぶんきゆう)3年(1863)7月竣工したもので、名棟梁・高瀬輔太郎(たかせすけたろう)の作で豪壮な流破風(ながれはふ)造りの代表的傑作と言われています。
大鳥居に掲げられた神額は、放生津出身の知恩院第71世大僧正・萬誉顕道(まんよけんどう)上人の請いにより左大臣近衛忠熙(このえただひろ)卿が安政4年(1857)に揮毫したものです。
大鳥居 ―伝承譚―
大鳥居の再建の話しが持ち上がった昭和31年(1956)頃、ある木こりが、夢の中で神様の声を聞き『山の奥に鳥居の材になる欅の大木が生えている』とのお告げがあったといいます。
木こりがお告げの辺りを捜したところ、なんと魚津の山奥で、これまでに見たこともないような欅の大木が発見されました。木こりらは「これはきっと御神木だ」と皆で相談して、お祓いを受け神様に感謝して、その木を切り倒したそうです。
昭和32年には、その木はトレーラーで無事運ばれ、江柱まで神職や総代を始め、東町と新規町の獅子舞がその御神木をお迎えに出たそうですよ。昭和34年には大鳥居が完成し竣工式が行われました。きっと鳥居を潜ると身の回りで何か良いことが起こりそうな予感が・・・
拝殿左右の狛犬は、弘化3年(1846)矢野啓通(やのたかみち)が19歳の時、欅の寄木造りで制作した傑作です。実物を見ると先ず大きさに驚き、次には匠の技に感心されることでしょう。
古伝承
当宮の由緒についての古伝承を要約すると「崇神天皇(すじんてんのう)即位の29年壬子(みずのえね)秋9月辛未(かのとひつじ)日、大田田彦臣が、4坐の神を祀りました。その神は、宗像奥津宮神速田霧姫命(はやたぎりひめのみこと)、宗像中津宮神佐依日女命(さよりひめのみこと)、宗像邉津宮神遺津日女命(いつひめのみこと)の3坐と、もう1坐が布波能母遅久奴須奴命(ふわのもぢくぬすぬのみこと)であります。この社を名古曽(なこそ)神社と称しました。奈呉の浦や奈呉の江の奈呉は、名古曽を略して名付けられたという。」
万葉歌人、高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が名古曽神社を参拝したときに海辺の風景を詠んだ歌が伝えられています。ただし、この歌は、万葉集には載せられていません。高市連黒人は、天津日子根命(あまつひこねのみこと)の子孫で天武天皇から持統天皇の頃の歌人であるとされています。天武朝から持統朝の頃には、名古曽神社が鎮座していたことになります。
この古伝承によると、宗像の3神つまり道主貴(みちぬしのむち)を祀る神社があったことが窺えます。もう1座の布波能母遅久須奴命は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と櫛名田姫(くしなだひめ)との間に生まれた御子、八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)と大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘、木花知流比売命(このはなちるひめのみこと)との間に生まれた神であります。
この伝承から、奈呉の海人たちが、宗像3女神、道主貴を海上守護の神として信仰していたのではないかと考えられています。また、道主貴は、比咩大神(ひめおおかみ)として宇佐八幡宮にも祀られている。布波能母遅久須奴命は、あまり祭神として祀られている例がないと推測されますが、素戔嗚尊の孫にあたる神であり、奈呉の海人を介して出雲地方との文化交流があったと考えられます。
続く・・・
富山湾での稚魚放流行事のお姿を拝見して、皇居の和風庭園にて昭和天皇が生き物を掌に載せ幼児をあやしておられるご様子を思い出しました。左の少年が今上天皇陛下(当時は皇太子殿下)です。
天皇陛下 皇后陛下のご結婚60周年をお祝い申し上げます。 鎹八咫烏 蔵
交通アクセス
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
協力 (順不同・敬称略)
放生津八幡宮 〒934-0025 富山県射水市八幡町2-2-27 TEL:0766-84-3449
八幡総本宮 宇佐神宮 〒872-0102 大分県宇佐市南宇佐2859 TEL:0978-37-0001
射水観光協会
〒934-0049富山県射水市鏡宮296(道の駅カモンパーク新湊内)TEL:0766-84-4649
射水市港湾・観光課〒939-0292富山県射水市小島703番地TEL:0766-51-6676
高岡市万葉歴史館 〒933-0116 富山県高岡市伏木一宮1-11-11 TEL:0766-44-5511
射水市役所 〒939-0294 射水市新開発410番地1代表電話 0766-51-6600
公益社団法人 とやま観光推進機構
〒930-8501 富山市新総曲輪1-7 県庁南別館 2F TEL: 076-441-7722
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話(代表)03(5253)4111
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
0コメント