はじめに 記事をお届けするに当たり、この度の九州豪雨と山形沖の地震災害、並びに近年の北海道・関西地方、並びに中国四国・九州地方他、多くの大雨・地震災害で未だ行方不明、並びに亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
今帰仁城跡とは
今帰仁城跡とは、沖縄本島の北部、本部半島にある歴史的なグスクです。
世界遺産にも登録されたグスクは、沖縄県の県庁所在地である那覇市から車で約1時間30分の距離にあります。
今帰仁城跡の歴史は古く、13世紀までさかのぼるとされています。
堅牢な城壁に囲まれたその城は、標高約100メートルに位置し、やんばるの地を守る要の城でした。
攀安知(はんあんち)時代に、中山軍(ちゅうざんぐん)に滅ぼされてからは、監守(かんしゅ)が派遣されるようになり、1665年に最後の監守が引き上げてからは、祭りを執り行う場所として残されました。
Nakijin Castle Ruins
The Nakijin Castle Ruins are the historical remnants of a gusuku
(Okinawan fortress) in the Motobu Peninsula, a peninsula located in
the northern part of Okinawa Island. It takes approximately ninety
minutes to drive from Naha City, the capital of Okinawa Prefecture,
to this gusuku designated as a world heritage site.
It is believed that the history of Nakijin Castle Ruins is extensive, dating back to the 13th century. Surrounded by robust ramparts, the castle is located at an altitude of approximately 100 meters, and had served as a pivotal fortress to protect the Yanbaru (mountainous areas of Kunigami District in northern Okinawa).
Ever since the invasion by Chuzan (principality of the central region) forces during the Hananchi era, a Kanshu (administrator) had been stationed. After the last Kanshu withdrew in 1665, the site remained as a place for ceremonial festivals.
Guide to Nakijin Castle Ruins
今帰仁城跡の案内
①外郭(がいかく)
高さは2m前後と比較的低い石垣が延長数百m蛇行して続いています。発掘調査で屋敷跡が確認されました。
②平郎門
本門で、現在見る門は昭和37年の琉球政府時代に修復されました。 琉球国由来記に「北山王者、本門、平郎門ヲ守護ス」として登場します。
③大隅(ウーシミ)
戦時に備え馬を養い、兵馬を訓練した場所として伝えられています。最も高い石垣が築かれた堅牢な城郭です。
④カーザフ
カーは川や湧泉を、ザフは迫で谷間を意味します。谷間は自然の石が露頭して独自の景観をつくっています。
⑤旧道
平郎門から入って右手、曲がりくねった大きな岩盤の谷間を利用し、防衛機能上から幅は狭く急なのぼり道となっています。
⑥大庭(ウーミャ)
大庭を取り囲むように正殿(主郭)、北殿、南殿の建物が配置されていたと考えられ、行事等に利用された重要な広場です。
⑦御内原(ウーチバル)
今帰仁城跡に仕えた女官の生活の場所と伝えられ、城内でも神聖な場所です。北側から海を一望することができます。(写真:城内上の御嶽)
⑧主郭
発掘調査によって築城から廃城までの時期変遷を確認することができました。城内で最も中心的な建物があった場所です。(俗称:本丸)
⑨志慶真門郭(しげまじょうかく)
ここには城主に仕えた身近な人々が住んだと考えられてます。発掘調査によって4つの建物があったことが分かっています。
➉クバの御嶽
今帰仁城跡の西にある古生代~中生代の石灰岩からなる丘陵。琉球の時代から続く聖地で、地元ではウガーミと呼ばれる神域です。
⑪ミームングスク
ミームングスクは高さ約1.5mの石積みが方形状に積まれています。今帰仁城の出城ではなかったかと考えられています。
⑫今帰仁ムラ跡
今帰仁城跡の周辺にはいくつかの集落跡がありました。今帰仁ムラ跡では発掘調査が行われ多数の柱穴や土坑、中国産の陶磁器などが発見されています。
今帰仁城跡のカンヒザクラ
今帰仁城跡「桜祭り」夜桜
今帰仁城跡 王様と王妃様がお待ちしています。(優しそうな表情ですね…!)
今帰仁城跡は桜の名所として知られ、毎年1月~2月には桜祭りが行われています。桜は昭和40年代に今泊区民によって植樹されました。
今帰仁城跡・今帰仁城の歴史
三山鼎立(さんざんていりつ)の時代
集落を統括していた各地按司(あじ)がまとまっていく過程で、やんばるでは今帰仁(なきじん)グスクへ、中頭(なかがみ)では浦添(うらそえ)グスクへ、島尻(しまじり)では大里(おおざと)グスクや南山(なんざん)グスクへその力が集約されていきます。
今帰仁・浦添・大里(高嶺)の三グスクを中心にまとまった時代が三山鼎立(さんざんていりつ)時代です。三山鼎立時代に至るまでには、大小様々なグスクが割拠(かっきょ)したと考えられ、今も残る遺跡にその痕跡(こんせき)を見ることができます。
『中山世鑑(ちゅうざんせかん)』や『中山世譜(ちゅうざんせふ)』によると「琉球は有史以来統一王統によって統治されてきたが、英祖王統玉城王代の延祐年間(1314年~1320年)に至って国政が乱れ、今帰仁按司と大里按司が離反して山北・南山を形成したため、統一王統は崩れ中山の勢力範囲が限定された」といわれます。その見解は、『北山由来記』や野史(やし)、各地の門中(もんちゅう)の持つ『元祖由来記(がんそゆらいき)』などの背景になっていて、今でも根強く語られる歴史認識となっています。しかし、現在の研究では三山は諸按司(しょあじ)の抗争から形成された小国家であると理解されています。
中国の史書『明実録』に登場する山北の王は、怕尼芝(はにじ)・珉(みん)・攀安知(はんあんち)の三王で、各王の交易記録を見ますと琉球国山北王怕尼芝(1383年~1390年)は7年間に6回、琉球国山北王珉(1395年)が1回の交易、琉球国山北王攀安知(1396年~1416年)が19年間に11回の交易を行っています。
交易は時の中国明との間に公的に行われ宝物として冠帯や衣服などの品々を賜りました。三山でも中山は最も数多くの進貢(しんこう)を行うとともに留学生を送り直接中国の学問や政治・社会制度を学ばせ、中国から技術を持った人々を帰化(きか)させるなど、大陸の新しい文化を積極的にとりいれていきました。そのことがやがて他の二つの小国家をしのぐ勢力を築くことになり、琉球を統一する礎(いしずえ)となりました。
今帰仁城跡・伝説に見る今帰仁城
今帰仁グスクの物語は多く、旧家に残る家譜(かふ)や野史として伝えられています。物語の中で史実とは考えられない部分もあることなどから伝説として今に伝えられています。
築城物語 ~北谷なーちらー~
今帰仁城は固い黒石で城壁を築き上げる堅固な城として知られていました。しかし、この堅い黒石をけずるのが大変で工事がなかなかはかどりません。そんな折に北谷村に奇怪(きかい)な妖刀(ようとう)「北谷なーちらー」という極めて切れ味の鋭い刃物の噂が国中にひろまりました。
この刀を振ればなんでも二つに切れ、魔力のある包丁として話題となりました。石切り工事に大変苦労をしていたため、「そんなに切れるのなら石けずりに使いたい」と今帰仁城に献上(けんじょう)させました。これをもってすればまるで豆腐でも切るようにスパッと切れるので、思うとおりに丈夫な石垣ができあがったとされます。石垣にノミ跡が無いのはこの「北谷なーちらー」のおかげとされています。後に尚家の家宝として大切に伝えられました。
北山騒動
北山に若按司が生まれてすぐに国頭地方で謀反(むほん)が起こったという噂が流れました。武勇のほまれ高い家臣(謝名大主、潮平大主などの説がある)がこれを打つべく出発します。しかし、これは重臣の本部大主が手ごわい家臣を外に追い出して城を乗っ取ろうとする策だったのです。
若按司の誕生祝の宴(うたげ)が開かれるところへ、本部大主が軍勢で流れこみます。国頭から引き返した家臣に助けられ辛くも逃げのびましたが敵に追いつかれそうになりました。そこで王妃は「産後でこれ以上歩けません、この子を頼みます」と言って乙樽(うとうだる)と家臣へ若按司を預け志慶真川へ身を投げてしまいました。家臣は乙樽を励まし、ようやくクバの御嶽(うたき)の岩屋にかくれ朝を待ち、恩納(おんな)の忠臣(ちゅうしん)山田大主を頼り逃げ延びます。
若按司が山田大主のところで8歳になった時、城主となった本部大主が討手を差し向けたという噂が流れたので、若按司は名を岡春と改め北谷間切の砂辺村へ落ち延び下人奉公しながらチャンスが来るのを待ちました。それから10年後、ようやくその時が来ます。大宜味で旧臣たちが集まって旗揚げし準備した事を知り、若按司は勘手納港(かんてなこう)に旧臣を集め3千の大軍を旗揚げします。この勢いに城中の兵は戦意を失い城は落ちました。身を潜めていた乙樽も城内に駆けつけます。後に乙樽は忠誠と情けの深さに「神人」の位を授かりました。
国宝「宝剣千代金丸」 ~受剣石~
国宝金装宝剣拵(千代金丸)
北山王攀安知(はんあんち)は己の武勇にものを言わせ富を集めていましたが国頭、名護、羽地の諸按司たちは不満を募らせていました。やがて、佐敷の尚巴志(しょうはし)が台頭1416年、尚巴志の連合軍と攀安知は合戦を交えます。しかし、屈指の堅城で攻めあぐんでいたためにらみ合いとなりました。そこで尚巴志は城中の大将で欲深い本部平原にワイロを贈り謀反を企てるよう誘いました。
翌日、本部平原は攀安知に「攻撃に出て、王は表、私は裏の敵を追い散らしましょう」と誘い、これを計略と知らず攀安知は尚巴志の軍勢を深追いします。やがて、城中から火の手が上がるのを見てあわてて引き返すと本部平原が城門で「わが手に討たれよ」と叫び一騎打ちとなりました。怒り狂った攀安知は先祖伝来の宝刀「千代金丸」で本部平原を斬り殺し、もはやこれまでと城の守護神カナヒヤブの霊石を切りつけ返す刀で切腹をしようとしました。しかし、これが切れなかったため志慶真川に投げ捨て、腰の小刀で切腹して果てました。
後に千代金丸は志慶真川から拾われ尚家に献上、天下の至宝として大切に保管されました。
現在、国宝「宝剣千代金丸」は、今帰仁城跡にある今帰仁村歴史文化センターに展示されています。今帰仁城跡を訪ねられる折には、忘れず是非ご覧ください。
今帰仁村歴史文化センター
今帰仁城跡をはじめ今帰仁村の歴史と文化を紹介しています。今帰仁城跡から出土した陶磁器などの資料も展示しています。
続く・・・
編集後記
小生の考えが甘かったようです。今帰仁村と世界文化遺産「今帰仁城跡」、前編・後編の2回で完結する予定でした。しかし、とてもとても奥が深く、今は、やっとのことで今帰仁村の入口に辿り着いたという気分です。(ひょっとすると、まだ辿り着けていないのかも?)
当初の計画を改めまして、「今帰仁村編」次号は第3回といたします。
読者の皆様どうかお付き合いください。
また、今帰仁村の関係者の皆様、引き続きご協力お願いいたします。
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
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