はじめに 記事をお届けするに当たり、この度の九州豪雨と山形沖の地震災害、並びに近年の北海道・関西地方、並びに中国四国・九州地方他、多くの大雨・地震災害で未だ行方不明、並びに亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
八重山神社
きりたった岩壁のくぼみに拝殿や本殿が建立されています。
松江藩ゆかりの牛馬の守護神であり、家内繁盛や病気平癒の神様としても有名です。
いったん火事で焼失しましたが、1734年に松江藩主によって再建され、「一社一例国主守護之社」として崇拝されています。
随身門に設置されている隋神像と狛犬は大森銀山の五百羅漢の作者「坪内平七郎利忠」の作です。石州の福光石製です。(全国的に珍しい型の狛犬です。)
鎮社地 島根県雲南市掛合町入間鷲尾山鎮座
主祭神 イザナミノ命 アマテラス大神
配祭神 建速須佐之男命 速玉男之神 予母津解之男神 神大市比売命 大山祇大神 大歳御祖大神
祭日: 4月13日例大祭 9月13日豊穣祭
この洞窟には魔神「鷲尾猛」が棲みつき、金鶏にまたがって空を飛び悪行を働いていたとの伝説が残っています。本殿の上から洞窟の入り口も望めます。
例祭のときご参拝者は、本殿の中にある金鶏を特別に拝見することが出来ます。
【八重山神社のスサノオ伝説】
その昔、この岩窟に棲みつき、悪行を働く怪神がいました。
名は鷲尾猛(わしおたける)です。金の鶏(きんのとり)にまたがって自在に宙を飛び回り里の住人たちを苦しめていました。
夜な夜な八重山の岩窟にある洞穴から這い出しては、人々の夢の中に現れ、サタンやデモンが迫りくる物語をしかけ、善良なる農民たちを不眠にさせました。
農耕を遅らせ、作物を実らせなくするのが目的だったのです。
折からの水不足による飢饉も手伝って労働の意欲をそがれた民はいよいよ働かなくなりムラの財政は傾きました。そんな中、入間というひとつの村に崩壊の危機がすぐそこまで迫っていたのです。
そこに登場したのがスサノオノミコトです。
正確には健速須之男命(たけはやすさのおのみこと)オロチ退治ののち、 最愛のイナタヒメと 住まうための場所を探し求めてさまよっていたミコトの逆鱗に触れ、ワシオの神は徹底的に鎮められたのでした。
以来、集落に平和が訪れ、八重山には母神のイザナミノミコト、姉神のアマテラスオオミカミなど諸神がまつられました。
アクセス
国道54号から雲南市道に分岐し、日本の滝100選に指定されている「八重滝」を過ぎ、道なりに進むとその神社入口はあります。
松江道吉田掛合ICから約15分
問い合わせ 八重山神社 春日宮司 0854-62-1260
雲南の出雲神楽とは ~後編~
出雲神楽とは、岩屋戸から天照大神を引っ張り出したひとり 「アメノウズメノミコト」の舞をそのままに受け継ぐ、 出雲地方(島根県東部)に伝わる伝統芸能です。
古事記、日本書紀の「神代」には、
神楽の元となった出雲神話が多数挿入されており、
そこに登場するスサノオ、オロチ、オオクニヌシ、イナタヒメ。
すべて雲南市を流れる斐伊川にまつわる神話です。
雲南市内には現在、15もの神楽社中があり、
出雲神楽は地域の郷土芸能として脈々と受け継がれています。
西日登神楽社中
西日登神楽は、文久元年頃、西日登地区の大島和市氏ら数名が、郷の峠の神官 玉木左近氏より「神楽舞」を習い、「西神楽」と称して活動を始めたのが最初とされています。
発足当時は、地元は勿論、遠くは飯石郡や吉田町(現在の雲南市の一部、又は飯南町)にも大八車に用具を積んで出掛け、夜遅くまで神楽を行っていたそうです。
昭和の戦時中はメンバー不足の為10年間の休止をしましたが戦後伝統在る「日登神楽」が絶えることを危ぶんだ 安部顕介氏らの働きかけにより昭和21年に再開の日の目を見ました。
そして昭和28年、出雲大社正遷宮の際に神楽を奉納し、千家宮司より感謝状と、「出雲大社教神代神楽師」の称号を賜り、以来、「出雲大社教神代神楽 西日登神楽社中」と称するようになりました。そして、東京、大阪等の都会での公演も行い、出雲神楽を世の中に広める一助となりました。
設立年 1861年(文久元年)
保持演目 香具山、簸乃川大蛇退治、国造、国譲、畝火山、日本武、三韓、天神記、経津主、恵美寿、切り目、田村、五行、茅の輪、日之御碕
会員数 10
住所 島根県雲南市木次町西日登
地区 木次町
薦沢神楽社中
薦沢神楽は、今から200年以前より舞われていたようです。
明治30年代の後半において、出雲大社教の直属神楽として大社の紋どころを許され、神楽師の辞令を下付されるに及び、以来、出雲大社教神代神楽薦沢社中と称するに至り、地元氏神様の祭例はもとより、近隣の神社のお祭りの奉納神楽、又各イベントでの公演、町外或いは県外への進出を図りながら、また一方では、この伝統ある郷土芸能をより確実に後世に伝えるため神楽の後継者づくりに力点を置き、全力を傾注致しております。
舞方には出雲神楽の特色、優雅・素朴・品位の三つの理念に基づき、更に迫力を加えた舞方に力点を置いています。
設立年 江戸期
会員数 8
住所 島根県雲南市大東町薦沢
地区 大東町
深野神楽保存会
深野神楽沿革の詳細は明らかではないが、弘化3年の神能記が残されている事から見ても、かなり古い時代から盛んに舞われていたと考えられます。
深野神楽は、深野神社社家を中心にして氏子によって組織され、氏神様の例祭に舞うほか、近郷諸社の例祭などに奉納していたようであります。
しかし深野神楽も次第に後継者に欠け、大正前期にいったんその姿を消すが、70年後、再び神楽復活の気運が盛り上がり、昭和61年8月に新しい深野神楽保存会の結成を見ます。以来、日夜練習に励み、各地の祭礼やイベントにその成果を発揮しています。
主な公演としては、国内では大阪公演を3回、広島公演を2回行いました。また国外では、平成4年5月に第2回アメリカジャパンウイーク(オレゴン州ポートランド市)に参加、また平成14年2月にはタイ国のロイエット市とノンスクサー村で出雲文化の紹介として神楽の公演を行い、タイ国との友好親善を深めてきました。
後継者育成にも力を注ぎ、子供神楽教室の指導は10年を迎えました。卒業した生徒たちが入団し始めています。
設立年 弘化3年(1846年)から大正まで舞われていた神楽を昭和61年に復活
保持演目 清目、八ッ花、山神祭、国譲、茅ノ輪、磐戸、田村、日本武、五行、八戸、日御碕
会員数 18
住所 島根県雲南市吉田町深野
地区 吉田町
南加茂貴船神楽社中
貴船神社の鎮座する加茂町南加茂地区には昔「里神楽」がありました。
明治の神職神能禁止令により、神主に代わる神賑いとして祭礼時には特に盛んに舞われていたようですが、いつの頃からか途絶えてしまいました。
昭和15年復活の機運が起きて数人の地区民によって再興が図られましたが長続きせず、そのままになっていたものを、神を祀るものと氏子が一体となってお祭を賑やかにしようと同好者を募り、昭和45年の暮れに貴船神楽組を組織しました。
演目は大原神職神楽の流れの神楽能を習得しつつ、さらに手を加えて貴船神楽として復活し、現在に至っています。
設立年 昭和45年
会員数 15
住所 島根県雲南市加茂町南加茂
地区 加茂町
山王寺本郷神楽社中
山王寺本郷神楽社中は、江戸時代から伝承される社中で、現在10数名の構成員により活動しております。本社中の特徴の一つに神楽面があります。
常用しております須佐之男命(すさのおのみこと)および蛇頭面は、小泉八雲とも親交のあった明治の名彫刻師・荒川亀斉の作であり、奏楽とともに躍動感を与えるものです。
また、戦前にも海外公演を行い、昭和30年には旧大東町の無形文化財に指定され、近年ではドイツ公演にも参加しております。
さらに、出雲大社北島國造家が主宰されます出雲教の神楽本部を拝命しております。
設立年 江戸期
保持演目 五行、天の足玉、恵比寿、日本武、香具山、簸の川大蛇退治、神子切目、岩戸、国譲、国造、茅の輪、畝傍山、天神記、大社
会員数 10
住所 大東町山王寺本郷
観客と一体に・・・神楽の宿にて
石州赤瓦が周囲の緑によく映える「雲南市木次の町並み」緑の風は夏を運んでくる・・・
何処からか出雲神楽のお囃子が聞こえて来るような・・・
辺り一面銀世界…桜の花咲く春を待つ雲南の冬景色です。
編集後記
曾ては日本のいたる所で行われていたというお神楽ですが、現代でも滅多に主要メディアに登場する事もなく、インバウンドの恩恵からも遠い存在でした。
歴史的に日本は封建、鎖国時代を経て、二度の日本文化における大変革を体験しています。それは明治維新と第二次世界大戦での日本降伏です。驚くのはこの二つの転換期に日本伝統の徳目 (仁・義・礼・智・信)は底流にあるものの、その上に築かれた汎ゆる地域的行事、祭礼、風習、日常の衣食住における様式まで捨て去り、大げさに言えば見事に、一日にして和魂洋才化してしまいました。
その根拠が明治政府を担った岩倉具視以下使節団は西欧諸国を見聞した結果、我が国の科学技術の遅れを痛感し、屈辱、敗北感から生じたものでした。そして間髪置かず西洋文明を導入。それは徹底した西洋崇拝です。それ以来、(1000年〜1500年も続いた日本固有の伝統文化さえも遅れたものと勘違い) 日本の建物は西欧建築を真似た疑似洋風建築、衣服や髪型迄西洋風の物真似でした。
いきおい政策も工業立国を目指し、科学技術や重工業への肩入れから始まり……この間我が国は日露戦争、上海事変、日清戦争を経て第二世界大戦で大敗を喫します。しかしながら、終戦後もその復興を目指した政策中身は変わることなく、日本文化の軽視と大企業による経済中心主義でした。その結果が、先進国の仲間入りを遂げた一時は"ジャパン・アズ・ナンバーワン" とされたこともある今日の日本の姿です。
しかし、ここに至って世界的に伝播した情報通信メディアの発達で世界的にインターネットやSNSなどを通じて様々な分野での情報が共有され、いきおい海外からは独特且つ異色な日本文化や小さな地域文化に目が注がれ始めています。そのスピードは鰻登りとなってきました。
さて、一昨日から本日にかけての記事はそうした中、長い期間にわたり、放置され続けてきたのが日本の誇れる地域の伝承芸能です。やっと、日の目を見る機会到来に期待したいものです。
我が国は確かに、経済大国には成りはしたものの、その陰に隠れて、こうした貴重な地域文化がいつしか人々の記憶から忘れ去られたように感じておりましたが、まだまだ地域は限定されており、こうした地域の伝統芸能の中で日本の歴史を表現するお神楽を受継ぎ、その伝承、進化の為に取組まれている方々が大勢おられることを知り、大変心強く感じるものでした。
このように全国各地においては地域文化の継承保存活動が未だ沢山、地下に埋もれているのでは?これからも機会あるごとに、そうした事例を広くご紹介出来ればと決意を新たにしたところです。
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(敬称略)
一般社団法人 雲南市観光協会 〒699-1311 雲南市木次町里方26番地1 TEL(0854)42-9770
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