はじめに 記事をお届けするに当たり、このたび関東・東北地域を直撃した、強烈な台風19号による被害は特に大雨による水害で亡くなられた方々を始め、多岐に亘って被災された皆様へ心よりお見舞い申し上げます。
姥神(うばがみ)とは
姥神の定義の説明の前にまず、奪衣婆の説明をさせていただきたい。 奪衣婆とは、死後にあの世へ渡るための三途の川の岸辺にいて、亡者の衣を脱がせる存在である。なぜ脱がせるのかと言うと、その衣を衣領樹(えりょうじゅ)と呼ばれる木の枝にかけるためである。そうすると生前の罪の大きい者は枝が大きく下がり、小さい者はほとんど動かない。亡者の罪はその衣に重さとなって染み込んでいることになる。衣領樹は罪を量るはかりであり、それを審査するのが奪衣婆である。
長野県大町市の大姥堂
立山アルペンルートの長野県側、黒部ダムの入り口にあるのが大町市です。その平野口に大姥尊坐像を祀っている西正院大姥堂があります。秘仏となっており、7年に一度のご開帳でしか見ることができません。室町中期頃のものだとされています。
ご開帳の時は回向柱を新しくし、この柱と像を紐で結んで7人の僧侶で法要を行います。紐で結ばれているので、柱をなでると姥神像に触ったことになり、ご利益があるそうです。ご開帳を含め、堂の管理は地域で行っています。
ここには、大姥小唄の文化などもあります。ちなみに写真は平成28年6月22日のご開帳時のものです。
立山から運ばれた姥神像
この姥神像の縁起を見ると、天正12(1584)年に富山城主だった佐々成政が、厳冬期に立山さらさら越えを通って徳川家康のところへ向かう時、立山の姥堂で安全祈願した際、道中の安全を願って最澄作の大姥尊像一体を譲り受け、これを背負って来たとのこと。このとき、無事に山を越えられたので大町市にこの姥神像を寄進したとされます。この時村人たちは、「内密にせよ」と言わていたので密かに祀っていましたが、元和3(1617)年になると堂を建立し、うやうやしく安置したということです。
ただ、厨子には元和3(1617)年、8月28日の夜に立山から飛んできた霊尊だとの墨書が見られます。
このように縁起ではもともと立山の姥神像だったことが伝えられています。場所も立山を挟んでちょうど芦峅寺の裏側ですので、立山の姥堂からの影響で祀られていることは間違いないと思われます。
ただし、ご利益に関しては、立山は女人救済が主なのに対し、西正院は安産や地域の安泰など、若干の相違が見られます。
ご開帳時新しくされた回向柱
ご開帳時の法要大般若経
秘仏として祀られる姥神像
立山の姥堂も、以前は中の姥神像は秘仏として扱われ、布橋灌頂会の時にだけ見ることができたのだと考えられます。この西正院の姥神像は、秘仏として祀られていますが、より立山の影響を強く受けていると言うことができると思います。
湯殿山も立山から影響を受けて姥神像を祀るようになったと思われますが、山の結界的な意味合いで祀っています。そのため、湯殿山から影響を受けているものは、秘仏として祀っているものはあまりありません。しかしながら全国には姥神像を秘仏として祀っている場合も多く見られます。これは湯殿山を経由せず、立山の姥堂からの影響がそのまま残されたものと考えることができます。
参考文献
「うば尊を祀る」、立山博物館、二〇十七年
続く・・・
寄稿文
廣谷知行(ひろたに ともゆき)
姥神信仰研究家
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